フランス映画祭2006:パレ・ロワイヤル!

「パレ・ロワイヤル!(仮題)」
Plais Royal!
コメディ/2004年/1時間40分/フランス公開:2005年11月23日
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STAFF
監督:ヴァレリー・ルメルシェ
脚本:ブリジット・ビュック、ヴァレリー・ルメルシェ
製作:エドゥアルド・ヴェイユ
撮影:ジェームズ・ウェランド
Réalisatrice: Valérie Lemercier
Scénariaste: Brigitte Buc, Valérie Lemercier
Producteru: Edouard Weil
Directeur de la photographie: James Welland
CAST
ヴァレリー・ルメルシェ(アルメル)、ランベール・ウィルソン(アルノー)、カトリーヌ・ドヌーヴ(ユージェニア)、ミシェル・オーモン(公式儀礼長)、マチルド・セニエ(ローレンス)、ドゥニ・ポダリデス(ティティ)
Valérie Lemercier (Armelle), Lambert Willson (Arnaud), Catherine Deneuve (Eugenia), Michel Aumont (le Chef du protocole), Mathilde Segnier (Laurence), Denis Podalydès (Titi)
□監督プロフィール
1964年3月9日、ディエップの富裕な農家に生まれる。セーヌ・マリティーム県のゴンズヴィルで、3人姉妹の次女として育つ。シャイで人見知りする子供だったものの、学校や家庭で道化役を演じて周囲の注目を集めるようになる。他人を観察し物真似をする才能に恵まれた彼女は自然と演劇を志すようになり、ルーアンのコンセルヴァトワールに合格する。18歳のときにパリに出て、演劇の授業を受けながら小さな役柄をこなしてゆく。1988年に、ジャン=ミシェル・リブは、好評を博していた「Palace」シリーズのなかで、彼女に、よき趣味を守り続けている女性のレディ・パレス役を提供してチャンスを与えた。
こうして、ルメルシェは、臆病なブルジョワ女性役を演じて舞台での名声を得ることになるのだが、ルイ・マル監督の『五月のミル』(彼女のスクリーンデビュー作品)や「L’Operation Corned-Beef」、「Sexes faibres」などで映画にも挑戦してゆく。こうした見方からすれば、ジャン=マリー・ポワレ監督の『おかしなおかしな訪問者』がひとつの到達点をなしているだろう。この作品で彼女は、フレネゴンド夫人と自分の子孫であるベアトリスの二役を演じて、セザール賞助演女優賞を獲得したのである。
しかし、彼女は、大成功をおさめる続編(『ビジター』)への出演はせずに、こうした路線に乗っかることを拒否する。ルメルシェは、三つのモリエール作品をもとにした暗鬱なワン・ウーマン・ショーでそのレパートリーの広さを見せ付けるなど舞台に活躍の場を戻し、映画への出演は稀になって行った。だが、「Casque bleu」でのノイローゼ患者や、「Vendredi soir」での慎ましやかな恋人役を演じて再びスクリーンに姿を現す。後者はクレール・ドゥニの着想による思いがけないキャスティングだった。
まったく予測のつかないルメルシェは、シャンソンに挑戦したかと思うと(1996年にベルトラン・ブルガラとアルバムを作る)、テレビコマーシャルを作って注目を集め、1997年には初の長編映画『カドリーユ』を監督までしてしまう。これはサッシャ・ギトリ監督のいかにもブルジョワ的なマリボダージュの映画のリメークだ。その二年後には、同性愛を扱ったコメディである「Derrière」が続く。
この作品で彼女は、政治的正しさ(PC)の過剰さを茶目っ気たっぷりに取り上げている。監督兼脚本家のみならず、彼女は自作の主演もまたこなす。新作「パレ・ロワイヤル!」では、思いがけず女王になってしまう発音矯正士のアルメルの役を演じている。この作品は、カトリーヌ・ドヌーヴやランベール・ウィルソンなど豪華なキャスティングのおかげで、王族たちの世界を斬新に描き出して見せた。ドヌーヴも「デビュー当時からヴァレリーの本当のファン」だと語る。2006年のセザール賞の司会を務める。
□監督フィルモグラフィ
2005 出演   「Fauteils d’orchestres」
2005 出演   「L’Invite」
2004 監督/出演 『パレ・ロワイヤル!(仮題)』
2003 出演   「RRRrrr!!!」
2001 出演   「金曜の夜(Vendredi soir)」(クレール・ドゥニ)
1999 監督/出演 「Le Derriere」
1996 監督/出演 『カドリーユ』
1995 出演   「Sabrine」
1994 出演   「Casque bleu」
1993 出演   「La Cité de la peur, une comédie familiale」
1993 出演   『おかしなおかしな訪問者』(セザール賞助演女優賞)
1992 出演   「Sexes faibles」
1991 出演   「L’Operation Corned-Beef」
1991 出演   「Après après demain」
1990 出演   『五月のミル』(ルイ・マル)
□作品データ
とても純朴な発音矯正士のアルメルは、王の末っ子と結婚する。王が逝去すると思いがけず彼女は女王になってしまう。毎日王冠を被って暮らすなんて笑えない…。あるいはもう笑うしかない。コメディ女優やシンガーなどマルチに活躍する「ユーモアの女王」ヴァレリー・ルメルシェが監督主演をこなし、王族たちの世界を面白おかしく描き出して見せる。カトリーヌ・ドヌーヴやランベール・ウィルソンなどフランス映画界を代表する豪華なキャスティングでも話題を呼び、公開第一週目で95万人を動員して「本年度最高のコメディ」と絶賛された。
□キャストプロフィール
ランベール・ウィルソン
俳優で監督のジョルジュ・ウィルソンを父として、幼少の頃から演劇に親しむ。1974年から1978年まで、ロンドン・ドラマ・センターで演劇教育を受け、俳優業ばかりでなく歌や音楽も学ぶ。1977年には、フレッド・ジンネマン監督の『ジュリア』でデビュー。ジンネマンは5年後に『氷壁の女』(1983)で、ランベールに主役を与えてショーン・コネリーと共演させた。
しかし、本当の意味で俳優としてのキャリアが始まるのは、フランスでの、『私生活のない女』(アンジェイ・ズラウスキ、84)、『ランデヴー』(アンドレ・テシネ、84)においてである。ロマンチックな俳優というレッテルが貼られるほどの容貌にもかかわらず、ランベール・ウィルソンは、デビュー当時からずっと、海外の監督や、独特なフランス人監督の演出のもとで新境地を開拓したいという欲望をしめしてきたのである。
1987年には、『建築家の腹』(ピーター・グリーナウェイ)と 『ソフィー・マルソーの愛、革命に生きて』(フィリップ・ド・ブロカ)に出演し、引き続き翌年には、『悪霊』(アンジェイ・ワイダ)に参加する。だが、二つの独特の個性をもった長編がきっかけで、彼は批評家と大衆のまえに頭角をあらわすことになる。「La Vouivre」(ジョルジュ・ウィルソン、88)と、ピエール神父役を演じた 「Hiver 54(54年の冬)」(デゥニ・アマール、89)である。その演技は同業者からも好意的に迎えられ、ジャン・ギャバン賞を獲得、フランス映画界の期待に報いたのである。
その後も彼は絶えず様々な役柄に挑戦し、コシュチューム・プレイ( 『ジェファソン・イン・パリ 若き大統領の恋、』、ジェームズ・アイヴォリー、95)から、大衆コメディ( 「Jet Set(ジェットセット2)」、ファビアン・オンテニエント、04)、合唱映画( 「L’Anniversaire (誕生日)」、ディアーヌ・キュリス、05)や一風変わったコメディ( 「パレ・ロワイヤル!」、ヴァレリー・ルメルシェ、04)、さらにはミュージカル・コメディ(『恋するシャンソン』、アラン・レネ、97)に至るまで幅広い役柄をこなしてきた。ハリウッドでも、彼の名声は高まっている。『マトリックス・リローデッド』と『マトリックス・レヴォリューションズ』(ラリー&アンディ・ウォシャウスキー)ではメロヴィンジアンの役を演じ、『タイムライン』(リチャード・ドナー、03)や、同じフランス人であるピトフが監督した『キャットウーマン』(03)にも出演している。
カトリーヌ・ドヌーヴ
1943年10月22日パリで俳優の一家に生まれる。祖母はオデオン座のプロンプター、母親は舞台女優、父親はパラマウントの吹き替え監督であった。とはいえ、幼いカトリーヌは、四歳年上の姉フランソワーズとは反対に、映画での仕事を夢見ていたわけではなかった。
それにもかかわらず、1957年には「Les Collégiennes」でスクリーンデビューを果たし、さらに、まだリセの学生であったが、「Les Portes Claquent」に出演することになる。すでにドヌーヴと名乗っていた彼女は、16歳のときに家を出て、15歳年上のロジェ・ヴァディムと同棲をはじめる。ヴァディムは『悪徳の栄え』に彼女を出演させた。63年にクリスチャンを出産するが同年に籍を入れぬまま別離。
1964年には、ジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』でヒロインを演じる。この作品は興行的成功とカンヌ映画祭パルム・ドールを受賞し、彼女の人気を決定的なものにした。女優という仕事を真剣に考えはじめた彼女は役柄を選ぶようになるが、その選択は彼女の趣味の確かさと大胆さを物語っている。
ドヌーヴは、その正統派の美貌とブロンドの髪から連想されるロマンチックな少女のイメージからうまく距離を取って、ロマン・ポランスキーの『反撥』における精神分裂病を病んだ少女、ルイス・ブニュエルの『昼顔』での娼婦に身をやつす貞節な妻といった役柄を演じてゆく。ブニュエルとはのちに『哀しみのトリスターナ』を撮ることになる。
さらにジャン=ポール・ラプノ監督の『城の生活』、『うず潮』で生来の奔放さとリズムうまく生かした彼女は、『ロシュフォールの恋人』で再びその素質を見せ付ける。このミュージカル・コメディのなかで彼女は、数ヵ月後に事故で世を去ってしまうことになる姉のフランソワーズと共演した。
ハリウッドもまた彼女に目をつける。ジャック・レモン(『幸せはパリで』、69)やバート・レイノルズ(『ハッスル』、75)と共演し、シャネルの広告イメージとして有名になった。またイタリアの巨匠マウロ・ボロニーニ(『哀しみの伯爵夫人』、74)やマルコ・フェレーリ(『ひきしお』、71)のもとでも演じた。
『ひきしお』では、マルチェロ・マストロヤンニと共演する。ドヌーヴは1969年にフランソワ・トリュフォーと出会い、『暗くなるまでこの恋を』をつくる。このアイリッシュの推理小説の翻案は観客を狼狽させたものの、この「女たちを愛した映画監督」は、1980年に『終電車』で、激しい気性の女優役という、彼女が演じた中でもっとも美しい役柄の一つを与えることになる。この作品は大成功をおさめ、彼女に1981年のセザール賞主演女優賞をもたらした。
同じ年、アンドレ・テシネの『海辺のホテルにて』でエレーヌを演じる。その後、彼女のお気に入りの監督となったテシネは、『夜を殺した女』(86)、『私の好きな季節』(93)、『夜の子供たち』(96)、『変わり行く季節』(04)と一緒に仕事を続け、彼女のために強がっているけれど実は傷つきやすい5人の女性を描き出すことになる。
ドヌーヴは、1985年にはマリアンヌ[フランス共和国を象徴する女性像]のモデルにも選ばれ、フランス映画の中心にとどまり続けることになる。レジス・ヴァルニエ監督の大作『インドシナ』(92)に出演することでスターとしての地位を確固たるものにする一方で(この作品で再びセザール賞を受賞する)、シネフィルでもある彼女はフランス映画のなかでも極めてユニークな才能の持ち主たちと仕事をする。
レオス・カラックス(『ポーラX』、99)や、フランソワ・オゾン(『8人の女たち』、02)、アルノー・デプレシャン(『キングス&クイーン』、04)の作品に出演し、さらに、マノエル・ド・オリヴェイラ(『メフィストの誘い』95、『家路』01、『永遠の語らい』03)やラース・フォン・トリアー(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』00)など海外の監督とも仕事をする。
彼女はつねに、洗練された女性という自らのイメージを裏切ろうとしてみせる。フィリップ・ガレルの『夜風の匂い』(99)では自殺衝動に駆られる女を演じて見せ、ニコール・ガルシアの『ヴァンドーム広場』(98)でアルコール依存症の女に扮する。この役柄で1998年のヴェネチア映画祭主演女優賞を獲得。さらに2002年ベルリン映画祭では彼女のキャリア全体に敬意を表して銀熊賞が送られた。「Bell Maman」(98)や『パレ・ロワイヤル!』でコメディに挑んでみたのち、「Le Concile de pierre」(2006)ではモニカ・ベルッチの母親役を演じている。

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