
月22ユーロの攻防:フランスの最低賃金は「誰が払うか」を交渉する
月22.07ユーロ。日本円にすれば、ちょっとした外食一回分程度でしょうか。この金額が、いまフランスで政府と労働組合と経営者団体の三者が向き合う交渉の、ひとつの物差しになっています。
フランスの法定最低賃金SMICは、現在、時給で額面12.31ユーロ、手取り9.74ユーロです。週35時間働くと月額で額面1,867.02ユーロ、手取り1,477.93ユーロになります。ジャン=ピエール・ファランドゥ労働相は11月6日(金)、テレビ局TF1で、この手取りを「1,500ユーロの大台に乗せる」ことが「重要だ」と語りました。franceinfoの試算では、これは約1.5%、月額手取りで22.07ユーロの引き上げにあたります。
一方、労組側の要求はけた違いです。フランス民主労働総同盟(CFDT)は月額手取り100ユーロの増額、労働総同盟(CGT)は10%、手取りでおよそ150ユーロの上乗せを求めています。「労働者の力(FO)」のフレデリック・スイヤール書記長は、最低賃金を「中央値賃金の80%に相当する2,000ユーロ」にするよう求めると述べました。22ユーロと150ユーロ、そして2,000ユーロという目標。この隔たりそのものが、今回の問いの輪郭を示しているように思えます。生活が苦しいとき、その穴を埋める責任は誰が、どこまで負うのか、という問いです。
街頭の怒りが、首相の会議日程を動かした
報道によれば、交渉の背景には1か月半にわたって続く抗議運動があります。ラジオ・フランスの番組によると、高校生を支援し、生活費の高騰に抗議するデモに、ある日だけで60万人から160万人が参加しました。若者と「黄色いベスト」運動の参加者は「第4幕」を呼びかけており、新たなデモもすでに予定されています。労組は、小規模な対策では怒りは収まらないと警告しています。
こうした状況を受け、セバスチャン・ルコルニュ首相は11月5日(木)、労働組合と使用者団体を招いた「社会会議」を11月9日(月)に首相府マティニョンで開くと発表しました。同じ11月5日には、公共部門と民間部門でデモやストライキが呼びかけられていました。
ただ、この日程には「遅い」という批判があります。franceinfoなどの記者が参加するポッドキャスト『On/Off』は、9月から購買力の向上を求める声が上がっていたことを踏まえ、政府の対応のタイミングと、大統領府エリゼ宮と首相府マティニョンのあいだの認識のずれを主題に取り上げました。番組が軸にしたのは「政府の計算は何か」という問いです。
ここからは筆者の読みです。要求が出始めてから三者の場が設けられるまでの時間差は、フランスの賃金政策が「街頭の圧力」と「交渉の場」の往復運動として動いていることを示しているのではないでしょうか。CGTの幹部は「扉は少し開いている。大きく開くようにしなければならない」と語り、会議直前のデモへの参加を呼びかけました。デモは交渉の外にあるのではなく、交渉のカードの一枚として扱われているように見えます。
「自動で上がる」仕組みがあるのに、なぜ揉めるのか
日本の読者が意外に感じるかもしれないのは、フランスの最低賃金にはもともと強い自動改定の仕組みがある点です。SMICは毎年1月1日に、とくに所得の低い20%の世帯を対象に、たばこを除いた物価上昇率などを基準として自動的に改定されます。2026年1月1日には1.18%引き上げられました。さらに、インフレ率が2%を超えた場合は年の途中でも自動的に上がる仕組みがあり、エネルギー価格の大幅な上昇などを受けて、6月1日に2.41%引き上げられています。次の自動改定は2027年1月1日の見通しです。
では、何が争点なのでしょうか。政府が検討しているのは二つの点です。一つは、1月1日を待たずに来月から引き上げる「前倒し」。もう一つは、インフレ率を上回る「上乗せ(coup de pouce)」を行うかどうかです。franceinfoによれば、この上乗せが最後に実施されたのは、フランソワ・オランド氏が大統領に就任した後の2012年7月で、引き上げ幅は0.6%でした。
ロラン・レスキュール経済相はラジオ局RMCで、「いくら引き上げるのか、いつ実施するのかという二つの問題は検討の俎上にある」と認めました。そのうえで、「それだけでは足りない」とも述べています。毎年義務づけられている企業の賃金交渉で、とくに対応できる企業は賃上げを考慮すべきであり、三者協議の狙いは「それぞれが何をできるのか、力を合わせて共に前進するにはどうすればよいのか」を考えることだ、という説明です。
この発言は示唆に富んでいます。国家は最低賃金という「床」には責任を持つ。しかしその上の賃金については企業にも動いてほしい。そういう責任の切り分けが透けて見えるからです。ニュースによれば予算をめぐる緊張も指摘されており、政府がどこまで踏み込めるかは分からないとされています。手段が限られた政府が、責任の一部を企業側へ差し戻そうとしている、とも読めます。
最低賃金の「床」に張り付く人々
この議論が抽象論にとどまらないのは、対象となる人々の顔が具体的に見えてくるからです。franceinfoによると、2026年初めの改定では200万人余りの給与明細が変わりました。フランスでは労働者の10人に1人が、時給手取り9.74ユーロで働いていることになります。近年、その割合は減少傾向にあるとされます。ただし、最低賃金をわずかに上回る賃金で働き、自動改定の恩恵を受けない人も相当数いると記事は指摘しています。
最低賃金で働く人の多くは、従業員10人未満の零細企業に勤め、飲食業、スーパーマーケット、在宅介護といった分野に多くいます。4人に1人はパートタイムで、ほかの労働者よりその割合はかなり高い。そして約60%が女性です。化学産業では、男女の従業員数がほぼ同じであるにもかかわらず、最低賃金で働く人の10人中8人が女性だといいます。女性は男性よりもパートタイム契約を余儀なくされることが多く、それが賃金水準にも響いているとされます。
ここで見過ごされがちなのが、労組がもう一つの要求として掲げる産業別の賃金表の問題です。労組は、賃金表に最低賃金を下回る水準を一切設けないこと、そうした状態が確認された企業には金銭的な制裁を科すことを求めています。該当する労働者にはどのみち最低賃金が支払われます。しかし賃金表の水準が低いままだと、賃金全体が最低賃金近くに押し縮められ、昇格しても何年も最低賃金に「張り付いた」状態が続きかねません。つまり問題は「床の高さ」だけではなく、「床から上へ登る階段があるかどうか」にもあるわけです。
社会保険料という第三の財布
三者の綱引きを複雑にしているのが、社会保険料です。経営者団体のフランス企業運動(Medef)は、最低賃金が引き上げられた場合に備えて、雇用主負担の社会保険料を軽減するよう求めています。Medefは仏AFP通信に対し、「現時点で、賃金引き上げの要求に短期的に応えるため、企業に余力をもたらす社会保険料負担の軽減について、具体的な進展はない」と述べました。
一方の労組は、正反対の方向からこの財布に手をかけています。賃金交渉を拒む企業に対しては、社会保険料の負担軽減措置を廃止するよう要求しているのです。CGTはさらに、公務員の指数ポイントの10%引き上げと、すべての賃金を物価に連動させることも求めています。
この構図を筆者なりに言い換えると、こうなります。賃上げの原資を企業が出すのか、社会保険料の軽減という形で公費が実質的に肩代わりするのか、それとも賃金を物価に連動させて制度そのものに責任を埋め込むのか。フランスの交渉は、生活の苦しさを個人や家計の工夫の問題としてではなく、国家・企業・労働者のあいだで「費用をどう配分するか」という問題として正面から扱っている、と読むことができます。
日本とアメリカから見ると
日本では一般に、最低賃金は審議会の場で決まり、それを上回る賃上げは春闘や個々の企業の努力に委ねられる傾向が強いと言われます。暮らしの不足分は家計のやりくりや副業で補う、という発想が根強いとされることも少なくありません。そうした通念と比べると、首相が労使を呼び集め、街頭の動員がその日程と中身に影響を与えるフランスの光景は、かなり異質に映るはずです。
アメリカについては、最低賃金が州ごとに定められ、市場の論理が中心で、連邦政府の関与は限定的だと説明されることが多いでしょう。その意味でフランスは、賃金の問題を最も「政治化」しやすい国のひとつだと言えそうです。ただし、今回の報道からもう一つ読み取れることがあります。政府自身が、国家だけで背負うことの限界を認め、企業との分担を口にしているという点です。
11月9日の先にあるもの
11月9日の社会会議の後、労組連合は今後の動きを決めるとしています。今後のシナリオは、筆者の見立てとして大まかに三つ考えられます。一つ目は、前倒しと小幅な上乗せで「1,500ユーロの大台」を実現し、企業に賃金交渉を促す形で収める道です。二つ目は、社会保険料の扱いをめぐって労使の溝が埋まらず、要求との落差が新たな動員を呼ぶ道。三つ目は、賃金表への制裁など構造に踏み込む措置が加わり、「床」だけでなく「階段」の議論に進む道です。どれになるかを左右するのは、予算の制約と、街頭の熱がどこまで続くかでしょう。
いずれにしても、このフランスの交渉は、物価高のもとで賃金と生活保障の責任をどう分け合うかという、多くの国に共通する問いを可視化しています。最低賃金で働く人の多くが女性で、零細企業や介護、小売の現場にいるという事実は、日本の賃上げ議論を考えるうえでも一つの参照点になるはずです。
働いても生活が苦しいとき、その責任は企業、政府、個人のどこに置かれるべきでしょうか。そして日本では、その問いを誰が、どの場で、どれほどの声量で問うことができるのでしょうか。
出典
- Radio France Économie:Crise sociale : le gouvernement à contretemps ? "On/Off", épisode 7 (2026/11/6)
- Radio France Économie:Sébastien Lecornu donne rendez-vous lundi à une "conférence sociale" aux syndicats et au patronat (2026/11/7)
- franceinfo (titres):Quand et de combien augmenter le smic ? Les deux questions sont "sur la table" du gouvernement (2026/11/4)
- franceinfo (titres):Éventuelle hausse du smic : quel est le profil des salariés qui sont payés au salaire minimum ? (2026/11/7)
- franceinfo (titres):Barre des 1 500 euros, 10% d'augmentation, 100 euros en plus… Quelles sont les propositions du gouvernement et des syndicats sur le smic ? (2026/11/7)