
「入れない」のは誰か――会場の扉が映す、公共の場の作法
11月4日の水曜日、20時を少し前。パリ西部の宴会場Pavillon Wagramの入口で、一人の記者が止められた。Mediapartの記者で、手には自分名義のチケットがあった。同じように、Politisの編集部員とフリーランスの記者も入れなかった。
催しは、ジョルダン・バルデラの3冊目の著書『Gouverner』の発表に合わせたものだった。RNの報道部門責任者ヴィクトル・シャベールは、AFPに「これは私的な催しで、彼らには認証を受けていないと伝えた」と説明している。ただしAFPによれば、ほかの多くの報道機関は認証を得ていた。結果として、登録していた記者のほぼ全員が会場を後にした。残ったのは、Fayardの親会社でもあるBolloréグループ傘下のメディアなどだった。
私はこの場面を、一つの政党の振る舞いとしてだけ読むつもりはない。同じ週のフランスのニュースを並べると、扉の前で「誰が、何を根拠に、誰を通すのか」が問われる場面が、立場を変えて何度も現れるからだ。
扉の前に立つのは、いつも違う人たち
まず、いま述べた事実の続きを確認しておく。Mediapartは9月末、バルデラの若いころのものとされる反ユダヤ主義的な文章を公表した。党首は疑惑を否定し、名誉毀損で告訴している。10月末のオルレアンでのRN党大会とマリーヌ・ルペンの選挙運動初集会でも、Mediapartの記者は党活動家から騒ぎ立てられ、警備担当者に手荒く2度退場させられたという。Mediapartの社長カリーヌ・フトーは、これを「検閲」だと強く非難した。つまり今回の入場拒否は、突発的な出来事というより、対立の延長線上にある。
同じ催しの前では、反ユダヤ主義に反対する団体「Nous vivrons」の活動家約15人が、プラカードと拡声器で抗議した。バルデラはXで、彼らを「本の発表に抗議する極左」と非難した。団体側は「極左と同じ麻痺させる手法を使っている」と応じた。ここでは、会場の内側で記者が排除され、外側では抗議する側が「失格」の札を貼られている。
次に、リヨンの件を見たい。LFIのラファエル・アルノー議員は、自著『Antifasciste』をめぐる講演を、当初リヨンで開く予定だった。しかし会場を所管する地区市役所が「安全上の理由」で中止した。アルノー氏と同じLFIのアナイス・ベルアッサ=シェリフィ議員は、表現の自由と参加者の安全を確保するため、県庁に「必要なあらゆる措置」を求めた。会場は隣接するヴィルールバンヌに移る見通しとなっている。
背景には重い事実がある。急進的な極右活動家クエンタン・デランク氏は2月、リヨンで殴打され死亡した。この事件では14人が殺人または加担の疑いで正式捜査の対象となり、アルノー氏の議会担当補佐官も含まれる。容疑者の一部は、アルノー氏が共同創設した反ファシズム運動ジュンヌ・ギャルドに所属していた。同団体は現在解散している。アルノー氏本人は10月29日に任意聴取を受けた。
デランク氏の家族は、アルノー氏が事件の起きた都市圏の外で集会を開くよう「尊厳と節度が促さなかった」ことを遺憾に思うと声明で述べた。一方で、アルノー氏の無罪推定は尊重し、議会活動に干渉するつもりはないとも明言している。ここで私が注目するのは、家族が批判の対象を「開催そのもの」ではなく「場所と節度」に置いている点だ。これは文面から読み取れる範囲での解釈にすぎない。ただ、発言の場を認めるかどうかと、その場所や作法を問うことが、切り分けて語られているように見える。
さらに、5日木曜日のパリのデモ行進がある。大統領選に挑む社会民主主義系のラファエル・グリュックスマンは、労組連合を支援し、賃金やSmicの引き上げを求めるために行進に加わった。「いや、グリュックスマンは同志ではない」という叫びが上がる一方で、「ラファエルを大統領に」という声や拍手もあった。彼は「まったく知ったことではない」と記者団に述べ、LFIによる「嫌がらせ」を非難した。AFPの確認では、彼はレピュブリック広場で敵対的な活動家に囲まれて45分間足止めされ、行進から離れることになった。
「安全」と「排除」は、どこで分かれるのか
三つの出来事は、法的な性格がまるで違う。ここを混同すると議論が荒くなる。
RNの催しは、本人たちの言う「私的な催し」だ。主催者に入場を選ぶ裁量があること自体は、この記事の事実からも否定できない。ただし、その裁量が特定の報道機関にだけ向けられ、しかも直前に批判的な報道があった相手だった場合はどうか。認証の有無という形式が、実質的には批判者の締め出しとして働いていないか。これは事実ではなく問いだが、多くの記者が連帯して退席したという事実は、報道側がそう受け止めたことを示している。
リヨンの講演は、権力の側が「安全上の理由」で中止を決めた例だ。安全確保は正当な理由になりうる。しかし中止を求められた側は、まさに「表現の自由と安全を確保する措置」を取るよう求めている。ここには、安全を理由に催しを止めるのか、安全を確保して催しを開くのかという分かれ目がある。当局がどちらを選ぶかで、「安全確保」は「事前の排除」にも変わりうる。
グリュックスマンの件は、さらに違う。広場で彼を囲んだのは国家でも主催者でもなく、同じ左派の側にいる活動家たちだ。誰も公式の禁止を出していない。それでも彼は、45分間動けず、行進から退くことになった。公共の場からの排除は、法の力を借りずに群衆の圧力だけでも成立する。そう考えると、問題は制度だけでなく、集まる人々の作法にも及ぶ。
興味深いのは、排除を非難する側と、排除される側の顔ぶれが、場面ごとに入れ替わることだ。Mediapartは極右による「検閲」を訴え、バルデラは抗議する人々を「全体主義への郷愁」と呼び、「Nous vivrons」はその手法がLFIと同じだと返す。グリュックスマンはLFIを非難し、LFIのアルノー氏は県庁に表現の自由の確保を求める。全員が「排除された側」の言葉を持ち、同時に別の誰かを遠ざける側にも立っている。
だから私は、この週の出来事から単純な善悪の図式を引き出すのは難しいと考える。むしろ見えてくるのは、公共の場を、思想の賛否と切り離して開いておく感覚が、どの陣営にも均等には根づいていないという点だ。ただし、事実の水準では場面ごとの違いが大きい。同列の「どちらも同じ」という話にはならない。
名前や信仰を理由に狙われた人は、どう扉の内側へ入るのか
ここまでは、政治的な立場をめぐる排除だった。一方で、出自や信仰という、本人が選んだ立場ではない理由で公共の場の外へ押し出される人々もいる。
イヴリーヌ県のトラップとラ・ヴリエールで10月23日に起きた襲撃では、26歳の黒人のフランス人、ペンゴ・ボシオ・ワンギさんが殺害され、7人が負傷した。その中には11歳の子どもも含まれる。検察側によれば、主な容疑者のケヴィン・テシエは、イスラム教徒、アフリカ系、または北アフリカ系の人々を標的にしたと認めている。被害者の母親と姉妹らはマクロン大統領と面会した。一方で、父親の弁護士は、息子の死後に政府関係者との連絡がなかったと述べていた。
この事件を政治行事の入場問題と同じ棚に置くのは、乱暴だと自覚している。ただ、この事件を同じ週に置いたのは、公共の場に参加する権利が脅かされる形がもう一つあることを示すためだ。ここでの排除は、誰かが扉の前で止められるという形ではなく、暴力という最も極端な形を取っている。
大西洋の向こうの報道は、これと対照的な場面を伝えている。ミシガン州で当選したアブドゥル・エル=サイードは、米上院で初めてのイスラム教徒の議員となる。選挙戦中、JD・ヴァンスとトランプは彼を「ジハーディスト」「暴力的なテロリスト」などと呼んだと記事は伝える。勝利演説でエル=サイードは、ヴァンスに「Habibi」と呼びかけ、1月に憲法上、宣誓をさせることになる皮肉を笑いに変えた。この言葉の意味を調べる検索は、前週比で+2900%に達した。
選挙戦の終盤には、聴衆の一人からムスリム同胞団を非難するよう求められる場面もあった。彼はそこで、カトリックとして初の米大統領となったJ・F・ケネディの言葉を引いた。「私はカトリック教徒の大統領候補ではない。民主党の大統領候補であり、たまたまカトリック教徒でもあるのだ」。信仰を理由に疑いを向けられた人が、その疑いに「答えさせられる」立場に置かれ、そのうえで当選した。ここは事実の記述にとどめるが、公共の場への参加が、最終的には有権者の投票という形で認められたことは確かだ。
日本の読者に引き寄せて
日本の読者は、これらの場面を遠いものと感じるかもしれない。一般に、日本では対立を正面からぶつけ合うより、場や話題を避けて衝突を回避する傾向があると言われる。もしそうなら、フランスで起きているような扉の前の衝突は、日本では見えにくいだけかもしれない。見えないことが、排除がないことを意味するとは限らない。
試しに、身近な場面に置き換えてみたい。強く反対している政治家が地元で講演するとき、会場側が「トラブルを避けたい」という理由で貸し出しを断ったら、私たちはそれを妥当な判断と受け止めるだろうか。あるいは、批判的な記事を書いた記者だけが、主催者の「私的な催し」を理由に入れなかったら。日本の制度でそれがどう扱われるかは、この記事の素材だけでは語れない。しかし、この問いに即座に答えられない人は、少なくないはずだ。
フランスの今回のニュースが教えてくれるのは、公共の場の開放が、制度の問題であると同時に、日常の作法の問題でもあるということだ。グリュックスマンの45分は、法律ではなく人々の振る舞いが場を閉ざすことを示している。
見通し:安全の名を借りた排除を、どう見分けるか
今後を見通すと、大統領選に向けて、政治家の集会や行進、出版記念の催しは増えていくだろう。これは私の推測だが、対立が強まるほど、主催者や当局は「安全」や「私的な催し」という言葉で扉を閉ざす誘惑に駆られやすくなる。一方で、本当に危険がある場面もある。リヨンで県庁とヴィルールバンヌ市役所が公共秩序上の問題を協議しているように、安全の確保は現実の課題だ。
大事なのは、安全確保と恣意的な排除を見分ける基準を、事前に、公に、誰にでも同じように適用できる形で持つことだろう。誰が決め、何を根拠にし、どんな代替策を検討したのかが説明されるなら、会場の変更や警備の強化は排除とは区別できる。逆に、批判的な報道を続ける記者だけが、理由の説明なしに止められるなら、それは基準の欠如を示す。
最後に、読者のあなたに問いたい。あなたが強く反対する人物にも、講演の場や取材の機会は認められるべきだろうか。認めるとして、そのときあなたは、場所や時期、警備の方法など、どこまでを「条件」として許容できるだろうか。そしてあなた自身が少数の側に立ったとき、同じ基準で扱われることを望むだろうか。
出典
- franceinfo (titres):La famille de Quentin Deranque dénonce une conférence du député LFI Raphaël Arnault à Villeurbanne (2026/11/5)
- franceinfo (titres):"Que veut dire Habibi ?" : pic des recherches Google après le discours de victoire de Abdul El-Sayed lors des midterms 2026 (2026/11/6)
- franceinfo (titres):Attentat raciste à Trappes : la mère et des sœurs de Pengo Bossio Wangi ont été reçues mardi par Emmanuel Macron (2026/11/6)
- franceinfo (titres):"Je m'en contrefous" : Raphaël Glucksmann répond aux militants hostiles à sa présence, avant d'être contraint de quitter le cortège (2026/11/6)
- franceinfo (titres):Des journalistes quittent la soirée de lancement du livre de Jordan Bardella, après que le RN a notamment refusé l'accès à Mediapart (2026/11/5)