フランス映画祭は30年を迎え開幕
ついに30年を迎えたフランス映画祭が開催されました。
1993年6月に横浜みなとみらい地区で始まったフランス映画祭は、一時会場を東京に移りましたが、再度横浜のみなとみらい地区へ戻り、30年を迎えました。開催当時はパシフィコ横浜という国際会議場で1チケットも800円という安さで日本では公開されない映画が観れるという特別感、日本人ばかりではなくフランス人も混ざっての観客、フランスからのゲストも豪華でしかも身近にふれあえるという類を見ない映画祭でした。
フランス映画祭(第1期横浜時代)魅力
この映画祭を通じて劇場公開(配給)が決まった作品も多く、フランス映画祭はフランス映画の見本市のようでした。フランスの作品のみの映画祭は、この規模で行われるのは世界で随一だったと思われます。
国際会議場という大規模な会場で行われていたこともあり、1作品を見る観客の数は大変多いのです。現在のシネコンでは多くても数百名であるのに対し、最大5000名の観客席では、観客の声援や反応も非常に大きくなります。来日するゲストにもその熱意は伝わり、観客としてもゲストとしても大変魅力的な映画祭に映っていました。
映画はもちろん日本語字幕が付きますが、フランス人の観客も多いのが特徴でした。映画は基本的に黙ってみるものという日本人にとって、笑いやヤジなどフランス人の鑑賞の仕方にも、特別な雰囲気がありこの映画祭を特徴付けるものでした。
会場内でのサイン会やみなとみらい地区をうろつく来日ゲストもフランス映画ファンにとっても、うれしい事です。隣のホテルを出るゲストを待ち伏せして2ショット写真をねだる観客の姿もよく見られました。あまりいい行為ではないのですが、本国ではないこともあって、気さくに応じてくれるスターも多かったのが、この映画祭の特徴でした。
東京へ
もちろん問題が無かった訳ではありません。会議場と言うこともあり、映画を見る上では、スクリーン、音響など、通常の映画館よりも劣った環境になります。制作者も参加するこの映画祭では、会場の音響を気にする監督や制作(プロデューサー)も多くいました。実際この映画祭を契機に配給が決まることもあり、当時はフランス映画祭は東アジアの映画関係者の招待されていることもあり、ショーケース的な位置づけにもなっています。当時アジアで唯一の先進国であった日本での観客の反応は、今以上に重要でありました。
また、核拡散条約締結間近にフランスでの核実験再開を受けて、横浜市はフランス映画祭への補助金をカットすることになりました。以前から日本のフランス経済界では、フランス映画祭をもっとマスコミや人の集まりやすい東京で開催するべきだと言うことがありました。そうすれば、もっとスポンサーが集まるだろうと言うのです。
東京開催に移ってからは、上映会場はシネコンで開催され、以前のような雰囲気は失われてしまいましたが、フランスからの来日ゲストは健全で上映作品も厳選されてきました。
30周年オープニング
コロナ禍のため開催も危ぶまれ、来日ゲストも停止して開催していましたが、ついに30周辺を迎え、以前のような活気を取り戻していました。
オープニングセレモニーは、横浜みなとみらいホールでオープニング作品「EIFFEL」の前に行われました。オープニング作品は基本的に大作です。来日ゲスト総勢が一堂に会しますので、チケットもこちらから売りきれます。
オープニングでは30周年の記念ビデオの上映の後、世武裕子(せぶひろこ)さんのピアノ演奏から始まりました。
世武裕子はパリのエコールノルマル音楽院映画音楽科を卒業した作曲家です。映画やCMの音楽を多数手がけているほか、シンガー・ソングライター(sébuhiroko)としてオリジナル・アルバムも発表しています。
演奏した曲:
- 「軽蔑」サントラ
- 「ラ・マン〜愛人〜」サントラ
- 「アメリ」サントラ
- 「ぼくの叔父さん」サントラ
- 「みらいのこども」(オリジナル作品・歌唱あり)
- 間奏部分で「ロチュフォールの恋人たち」サントラを差し込み
MCの谷田部吉彦(東京国際映画祭の作品選定者)の司会で、ユニフランス代表、横浜市長、在日フランス大使、日産役員の挨拶が行われました。
フランス代表団全員が登場後、石田ゆり子さんが登壇し、映画EIFFELの主演男優のロマン・デュリスさんと監督が登場し映画祭開催宣言が行われました。
詳しい模様はYouTubeオフィシャルチャンネルで紹介いたします。