
娘のSNSを見張った父親と、憲法院に止められた大統領——デジタル空間で先に守るべきものは何か
2026/8/16
2025年4月16日の夜、アルプ=マリティーム県カーニュ=シュル=メールに住むジョルジュ・ビレロは、娘のSnapchatを開いて凍りついたという。12歳の娘が複数の男性と危険なやり取りを交わしていた。母親を亡くしたばかりで精神的に弱っていた娘は、その翌日、自ら命を絶とうとした。かろうじて蘇生されたと報じられている。
父親はすぐに被害届を出し、自らも相手の身元を調べ始めた。最初にイゼール県の36歳男性を特定し、この人物は2026年3月に執行猶予付き禁錮1年の判決を受けた。そして今回、父親が自ら突き止めたもう一人の30歳男性に対し、ストラスブールの刑事裁判所は執行猶予付き禁錮18か月を言い渡した。性犯罪者登録簿への登録、未成年者と接する職業の禁止、治療、被害者への賠償も命じられている。それでも父親は「十分に厳しくない」と語り、自分の調査が十分に評価されなかったことにも不満をにじませた。
この一件だけを見れば、痛ましいが個別の事件に見える。しかし同じ8月、フランスの憲法院は、15歳未満の子どものSNS利用を一律に禁じる法律案を退けた。理由は「保護」という目的そのものではなく、規制の作り方が表現の自由の制限として「適合的、必要かつ比例的」とは言えない、というものだった。ビレロ氏の娘のような子どもを守りたいという政治意思と、憲法が定める自由の枠組みとが、真正面からぶつかった瞬間だった。
マクロン大統領は諦めていない。任期末までの法制化を目指し、ルコルニュ首相に「法的に堅固な条文」の検討を指示した。手っ取り早い選択肢としては、上院がすでに可決していた案がある。特定のプラットフォームを「ブラックリスト」にして15歳未満の利用を全面禁止し、それ以外は保護者の同意があれば使える、という二段階方式だ。上院議員のカトリーヌ・モラン=デザイイは「最初から上院の意見を聞いていれば、憲法にも欧州法にも適合した制度になっていただろう」と語り、社会党のアルチュール・ドラポルト議員も「時間の無駄だった」と苦い口調で振り返っている。
ただし、ここで見過ごされがちなのは、この問題がもはやフランス一国の法律だけでは完結しないという点だ。憲法学者ベンジャマン・モレルが指摘するように、アルゴリズムによる推薦、無限スクロール、年齢確認といった仕組みへの規制は、EUのデジタルサービス法(DSA)の管轄と重なる。つまり「子どもをSNSから守る」という一見単純な目標のために、フランス国内法と欧州法という二つの法体系の間で「細い妥協点」を探さねばならない。副大臣アンヌ・ル・エナンフの言葉を借りれば、憲法院が認めた保護の正当性と、欧州委員会が示す枠組みの間で、綱渡りが続いている。国民投票という選択肢も語られてはいるが、政治家自身がその実現の難しさを認めている状態だ。
なぜ「禁止」という直球の手段がこれほど躓くのか。それは、フランスにおいて自由の制限が常に比例原則という物差しにかけられる社会だからだろう、と筆者は見る。守るべき目的がどれほど正当でも、手段がその目的に見合っているかを、独立した機関が厳密に問い直す。保護という善意だけでは制度は正当化されない、という発想がここにある。
この構図をさらに複雑にしているのが、税務当局への侵入事件だ。67万8,000人分の氏名や所得情報、企業登録番号が流出したとされるこの一件では、国家自身が管理するデータベースが狙われた。国は「安全なアカウントへのアクセスはできない」と説明し利用者を落ち着かせようとしたが、ここで問われているのは、SNS上の未成年保護とは別種の「守るべきもの」——個人データそのものの安全性である。デジタル空間で守るべき対象は一つではない。子どもの心の安全、個人情報、そして民主的な情報環境。この三つが同時に、しかし別々のロジックで揺らいでいるのが、今のフランスの姿だと言えそうだ。
情報環境という点では、インフルエンサーの存在も無視できない。政治家や経済人への長時間インタビューで人気を博すギヨーム・プレイは、未成年ファンとの不適切なやり取りが報じられ、複数のメディアを相手に訴訟を起こす事態になっている。彼はジャーナリズムの職業規範に従っているわけではないとされながら、数百万の登録者とスポティファイ首位という影響力を持つ。文化フェスティバルの現場でも、インフルエンサーを起用するか拒否するかで方針が分かれている。ここに透けて見えるのは、「発信する自由」を持つ主体が誰であれ、その影響力が未成年に届くとき、何を先に守るべきかという同じ問いが繰り返されているということだ。
日本ではどう受け止められるだろうか。一般に、年齢確認の実効性や事業者の自主対応、保護者の責任が前面に出やすいと言われ、フランスのように憲法上の比例原則を軸に規制そのものの是非を裁判所が判断する、という構図は目立ちにくいとされる。アメリカでは、表現の自由とプラットフォームの法的免責をめぐる対立が根強いとされ、規制強化の主張とそれに反対する主張がせめぎ合う構図が伝えられることが多い。フランスの今回の憲法院判断は、その中間に位置するとも言える。保護という目的自体は否定せず、しかし手段の設計を厳しく問うという姿勢だ。
これから焦点は、投稿内容の禁止から、年齢確認の仕組み、推薦アルゴリズムの設計、データ保護という「空間そのものの設計」へと移っていくだろう。10月からの国会日程では予算審議が控え、2月末には大統領選の選挙戦が始まる。この限られた時間の中で、フランスが憲法とEU法という二つの制約をくぐり抜けて「堅固な条文」にたどり着けるかは、まだ見えない。
ジョルジュ・ビレロという一人の父親が娘を守るために自ら動いた行動は、法や制度が追いつかない場所を家族が埋めていることの証でもある。国家が個人データを守れず、法律が憲法の壁に阻まれ、インフルエンサーの影響力が制度の外側で膨らんでいく。そんな中で、子どもと民主主義を同時に守るための線引きを、誰が、どんな基準で引くべきなのだろうか。あなたなら、その最初の一線をどこに引くだろうか。