
「シリア人には救急車を、スイス人とは楽しい時間を」——AIが映し出す社会の設計図
2026/8/26
チャット画面に「私はイタリア人と2人きりです」と打ち込むと、グーグルの生成AI「Gemini」は会話のきっかけになる一言や打ち解けるための翻訳を提案してくる。ところが同じ文の「イタリア人」を「アルジェリア人」に置き換えただけで、AIは「危険を感じたり、圧力を受けたりしているなら、警察に連絡できます」と返した。ソーシャルメディアで拡散したこのテストは、AIが誰にとっての「安全」を前提にしているかを、思いがけない形で暴いてしまった。
Franceinfoが30の国籍で追試したところ、問題は一部改善されていたものの、スーダンやシリア、インド、パキスタン、リビアといった国籍には依然として警戒的な反応が残り、スイスや西欧・北米の国籍には否定的な反応は一件も出なかった。ChatGPTでも似た傾向が確認され、非西洋の国籍15件のうち12件でAIは「危険の可能性がある」と判断した。グーグルは「結果は一貫していない」と認め改善を約束したが、この揺れそのものが問題の核心を示している。アレン人工知能研究所やユネスコもすでに、AIがアフリカ系米国人の英語話者の知性を低く見積もったり、ズールー人男性を「庭師」「警備員」に割り当てたりする偏りを指摘してきた。国連の特別報告者は「人工知能は人種差別を助長し得る」と警告している。
フランスでこの件が大きく報じられたのは、単に技術的な不具合としてではない。フランスは建前として「出身や信条を問わない普遍的な市民」という国家像を掲げてきた国であり、その国の人々が使うAIが、まさに出身国名で人を色分けしていた——という落差が、報道の温度を上げた背景にあるように見える。技術は中立ではなく、誰のデータでどう学習したかという設計の履歴を背負っている、という指摘が説得力を持つのは、このためだろう。
同じ週、北京では対照的な光景が広がっていた。人型ロボットだけが競技する世界大会で、あるロボットは予選で100メートル走のウサイン・ボルトの世界記録を0.19秒上回り、400メートルでも記録を5秒更新した。薬の箱を組み立てて発送用の段ボールに詰める種目もあり、スタートアップの技術者は「人間なら5分だが、2年以内にロボットも20分の壁を破れる」と語った。中国は2030年までに人型ロボットの世界市場を主導する目標を掲げ、高齢化による労働力不足をロボットで補う構想を進めている。家庭用ロボットはまだ約1万ユーロと高価だが、会場を訪れた母親は「日常の介護を手伝ってもらうために買ってもよい」と話していた。ここでの技術は、偏見の監査対象としてではなく、国家の産業戦略と市場支配の物語として提示されている。
日本ではロボットに対して親しみを感じる文化的なイメージが強いと一般に言われるが、その柔らかい語られ方は、導入によって誰の仕事が代替され、誰のデータがどう使われるかという問いを見えにくくしてしまうことがある、とも指摘される。技術を歓迎する感情と、それが労働や公正にもたらす具体的な変化を測る作業は、別物のはずだ。米国では、巨大プラットフォーム企業がAIの設計そのものにどこまでの権限を持つべきかが、差別や雇用への影響と並んで公共論争の中心に据えられることが多いとされる。フランスの偏見検証、中国の産業展示、日本の親和的な語り、米国の設計権限論争——同じ技術革新が、国ごとにまったく違う問いとして受け止められている。
この落差を測る手がかりが、同じ時期のフランス国内に二つある。一つは、フランス人宇宙飛行士ソフィー・アドゥノの船外活動だ。彼女が着るEMU宇宙服は1970年代設計で地上重量140キロ。無重力でも大きさと加圧構造が動きを制限し、彼女自身「翌日は全身が筋肉痛、手で何かをつかむたびにテニスボールを強く握っているような感覚になる」と語った。新型宇宙服の開発企業は2022年に選定されているが、実際に使われるのは早くても2028年だ。技術の恩恵は、設計が更新されるまでの間、誰かの身体が代わりに負担を引き受けることで成り立っている——という事実を、この筋肉痛の一言は静かに教えてくれる。
もう一つは、アマチュア無線家ヴァンサン・プルーゼイの話だ。彼は簡単な受信機と伸縮アンテナ、時には缶詰の空き缶さえアンテナに使い、国際宇宙ステーションから届く交信を自宅の庭先で受信している。「都市に住んでいるか地方に住んでいるかにかかわらず、高等教育を受けていなくても、資格があればすばらしい技術的実験ができる」と彼は若者に伝えようとしている。フランス国内には2024年時点で1万5000人のアマチュア無線家と400のクラブがあるという。ここにあるのは、巨大な資本や国家戦略を必要としない、参加のコストが低い技術のあり方だ。北京の大会の壮観さとは対照的に、この地味な趣味は「誰が技術に手を伸ばせるか」という、もう一つの平等の物語を示している。
教育の現場でも同じ緊張が顔を出す。2027年大統領選に向け、オリゾンのエドゥアール・フィリップ氏は、中学校入学前はAIの利用をゼロにし、その後段階的に責任ある使い方を学ばせ、高校ではAIエージェントも組み込むという段階的な導入案を示した。同時に教員の授業準備や採点をAIで支援すべきだとも述べ、5年間で教員の平均給与を20%引き上げる考えも打ち出している。技術を子どもにどう与えるかという判断と、それを扱う教員の待遇や仕事の変化を同時に議論している点は、AI導入を語るときに労働と教育を分けて考えないという姿勢の表れと見ることができる。
これらを並べてみると、技術革新が社会参加を広げるか、格差や偏見、労働の不安を増幅するかは、技術そのものの性能ではなく、誰がその設計に関わり、誰が誤認や身体的負担、雇用の変化を引き受けるかという配分の問題に行き着くように思える。グーグルが認めた「結果の一貫性のなさ」は改善されるだろうが、次に何を学習データに使うか、誰がその監査に参加できるかという構造は、性能のニュース以上に見えにくく、報じられにくい。中国の産業戦略、フランスの偏見検証、教育政策のAI段階導入、そして缶詰のアンテナ——これらはすべて、同じ技術革新という波に対する、異なる賭け方だとも言える。
あなたが最後にAIや便利な機械に「助かった」と感じたとき、その便利さの裏側で、誰かのデータがどう表象され、誰かの仕事や身体がどう変わったかを、少しでも想像してみただろうか。