
倒れても、なお続ける自由——ムシアラの言葉とフランスの夏が問いかけるもの
2026/8/20
8月18日、バイエルン・ミュンヘンのミッドフィルダー、ジャマル・ムシアラはInstagramにこう書いた。「短時間の一過性の意識消失発作と診断された。健康上の追加的なリスクはないことを強調することが重要だ」。彼はその4日間で、プレシーズンマッチ中に2度ピッチ上で倒れている。土曜日のライプツィヒ戦、火曜日のハイデンハイム戦。それでも23歳の彼が発したメッセージは、治療を優先して休むという方向ではなかった。「自分が個人的に望んでいるのは、普段の生活を送り、サッカーという情熱を続けることに、さらに専念することだ。私はこの責任を引き受けた」。神経科医の経過観察を受けながら、彼はプレーを続ける意思を自分の言葉で表明した。
この短い声明を読んで、まず気づくのは、ここで「決める」役割を担っているのが本人だという点だ。医療は伴走者として存在しているが、最終判断はムシアラ自身に委ねられている。身体が明確に「限界」を告げているにもかかわらず、続けるかどうかを選ぶ権利は個人にある——これは一つの理想的な自己決定のモデルに見える。だが、同じ夏のフランスで報じられた別のニュースを並べると、この理想がどれほど条件つきのものかが浮かび上がってくる。
フランス公衆衛生局は8月19日、2026年の高温期における超過死亡の暫定集計が7300人に達したと発表した。6月半ばから52日間続いた熱波は、2022年の33日間、2003年の22日間を上回る記録となり、7月の超過死亡のほぼ4分の3を75歳以上が占めた。死亡は病院、高齢者施設、そして自宅のいずれでも起きている。ここで問われているのは「本人が何を選んだか」ではない。多くの高齢者にとって、熱波の中で自分の身体をどう守るかという選択肢そのものが、十分な社会的支援なしには成立しなかった可能性がある——これは報道にある事実そのものではなく、そこから読み取れる解釈だが、少なくとも「自己決定」を語る前提条件が、年齢や住環境によって大きく違っていたことは、7300人という数字が示している。
自己決定が成立するための条件を、フランスは別の場面でも問い直している。フランス領ポリネシアでは、成人の51%が肥満状態にあり、過体重の人は4分の3に達する。保健相ライヘイ・アンスケルは、この状況を「文化」ではなく「社会の変化」だと説明した。加工糖やファストフードの普及、健康的で地元産の食品の高騰という構造の中で、人々の食習慣は変わっていったという。地域政府はこれに対し、食品表示の義務化、健康的な食品への補助、糖分や脂肪の多い食品への課税を組み合わせた10年計画を進めている。これは、個人の食の選択を尊重しながらも、その選択を歪めている経済的・環境的な構造そのものに国家が介入するという発想だ。つまり「選ぶ自由」を守るために、選択の前提となる環境を整えようとしている、と言えるだろう。
この「介入の正当性」がどこまで及ぶべきかという問いは、医療倫理の領域ではさらに切実な形で現れる。マルセイユの感染症大学病院研究所(IHU-MI)をめぐる調査では、1994年から2024年に発表された2674本の論文のうち853本に倫理または法的な問題が確認された。343本は倫理審査の承認について何も記載しておらず、304本では承認内容と実際の研究内容にずれがあった。これは、研究に参加した人々が、自分が何に同意しているのかを正確に知る権利——つまり自己決定の前提となる情報——が守られていなかった可能性を示している。研究所側は近年の違反は確認されていないと反論しているが、64件の論文撤回と270件の懸念表明という数字は、「保護のための手続き」が形だけになっていた場合の危うさを物語っている。
その一方で、医療の進歩は新しい形の自己決定を用意し始めている。モデルナとメルクが発表した進行期メラノーマ向けの個別化mRNA治療は、患者それぞれの腫瘍の変異に合わせて設計され、フェーズ3試験で1100人超を対象に、既存の免疫療法単独よりも有意に良い結果を示したという。これは、がんという圧倒的な脆弱性に対して、患者一人ひとりの身体に合わせた治療という選択肢が増えていくことを意味する。だが選択肢が増えるほど、その選択肢に手が届くかどうかという新しい不平等の軸も生まれるだろう。これは記事にある事実からの推測だが、個別化医療が広がる未来では、「選べること」自体が、所得や医療制度へのアクセスによって左右される可能性は十分に考えられる。
フランスという国は、こうした緊張を制度の設計問題として扱おうとする傾向がある。倫理審査委員会(CPP)が研究のたびに事前審査を行う仕組みも、食品への課税や表示義務も、根底にあるのは「個人の自由と社会の保護は、法律や合議の手続きを通じて両立させるべきだ」という発想だと読み取れる。これに対し、日本では、こうした身体に関わる意思決定は、法律そのものよりも指針や現場の合議に委ねられることが多いと一般に言われる。制度化を急がず、現場の裁量に委ねるという慎重さには、それ自体一つの価値観が表れているのだろう。アメリカでは、州ごとに制度が異なり、個人の権利という言葉で議論が組み立てられ、時に訴訟が基準を形づくることもあるとされる。同じ「自己決定」という言葉が、国によってまったく違う制度的な骨格の上に乗っているのだと想像できる。
ムシアラが自分の言葉で「続ける」と語れたのは、彼が保険もチームの医療体制も持つ、恵まれた環境にいたからでもあるだろう。フランスの熱波で亡くなった高齢者の多くは、そもそも「選ぶ」という行為の手前で、支えを必要としていたのかもしれない。選べることを保障する社会は、選ばなくても支えられる環境を、同じだけの熱意で整えているだろうか。あなたの身の回りでは、その両方が同時に用意されていると言えるだろうか。