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キーウの住宅街、ヨルダン川西岸の村、カリフォルニアの空——「守る」という言葉が置き去りにするもの
国際・欧州

キーウの住宅街、ヨルダン川西岸の村、カリフォルニアの空——「守る」という言葉が置き去りにするもの

2026/8/2

8月1日未明、キーウのソロミャンスキー区で、5階建ての住宅が一部損壊し、火災が発生したと報じられている。同じ夜、ダルニツキー区でも被害が確認され、死傷者が出たと伝えられている。だが実際に燃えたのは、誰かが暮らしていた住宅と、誰かが働いていた建物だった。

この攻撃が起きたのとほぼ同じタイミングで、アメリカのトランプ大統領は「パトリオット」防空システム用ミサイルの生産をウクライナに認めるかどうかについて、「非常に慎重にならなければならない」と述べていた。理由として彼が挙げたのは、「この技術を供与すれば、いつの日か相手がそれを自分たちに向けて使う可能性がある」という懸念だ。ゼレンスキー大統領は生産ライセンスについて協議したと説明している。

ここには奇妙な空白がある。ウクライナの市民は今夜も弾道ミサイルの標的になりうる。防ぐ手段は存在する。しかし、それを渡すかどうかは「将来自国に向けられるリスク」という、まったく別の計算軸で判断されている。守るという言葉の主語が、いつのまにか「ウクライナの民間人」から「アメリカの将来の安全保障」にすり替わっているのだ。これは誰が悪いという単純な話ではなく、兵器という技術そのものが持つ性質——一度渡した力は、渡した相手の意図を超えて存在し続ける——が生む構造的なジレンマとして読むべきだろう。

同じ週、まったく違う場所で、似た構造がべつの姿で現れていた。ヨルダン川西岸では、7月23日にイスラエル人入植地イタマル付近で民間人2人が刺され死亡したことをきっかけに、暴力の連鎖が始まった。翌日にはナブルス近郊の村テルで衝突が起き、パレスチナ人4人とイスラエル人2人が死亡。その数時間後には入植者集団が複数の村を襲い、家屋や車両、2つのモスクに火を放った。イスラエル軍はその後、ヨルダン川北部で大規模な「対テロ作戦」を展開し、数十人を逮捕している。

国連の中東和平プロセス担当副特別調整官は、この状況を「急速に悪化している」と警告した。興味深いのは、この警告に呼応するかたちで、イスラエル国内のメディア自身が政権批判を始めたことだ。『イェディオト・アハロノト』や『ハアレツ』の論説委員や治安当局者が、ネタニヤフ政権の政策を名指しで批判し、「第3次インティファーダ」という言葉まで使い始めている。研究者トマ・ヴェスコヴィ氏は、入植者による攻撃が処罰されないという感覚——「完全な白紙委任」——が暴力を可能にしていると指摘する。ここで問われているのは、国家権力が誰を守るために存在しているのか、という根本的な疑問だ。入植者を守る力は、パレスチナ人を守らない力と表裏一体になっている。

一見、まったく無関係に見える二つのニュースがある。ひとつは、南カリフォルニアのミラマー航空基地近くで米海兵隊のF-35B戦闘機が墜落したという出来事。パイロットは脱出し、命に関わらない負傷で搬送された。ミラマー基地は映画『トップガン』の舞台として世界的に知られる、エリートパイロット養成の象徴のような場所だ。もうひとつは、中東各地の米国大使館が自国民に対し、紛争がエスカレートした場合には退避を検討するよう呼びかけたというニュースだ。ヨルダンでは米軍基地への接近を避けるよう、イスラエルでは最寄りの防空壕の場所を確認するよう、エジプトでは実行主体が特定されていないドローン攻撃を受けたガス運搬船の例を踏まえ、警戒を強めるよう促されている。

なぜこの二つを並べるのか。ミラマー基地の墜落は、「守る側」であるはずの軍事技術そのものが、常に事故のリスクを抱えていることを思い出させる。パイロットは脱出できたが、それは装備の性能によるものであって、安全保障という営みそのものが本質的にリスクフリーではないことを示している。そして中東の大使館の呼びかけは、国家が自国民に向けて発することのできる「守り」の限界そのものだ。防空壕の場所を確認せよ、航空便の欠航に備えよ——これは裏を返せば、国家が「その先」は保証できないという事実上の告白でもある。

この五つの出来事を並べて見えてくるのは、安全保障という言葉が、実は複数の異なるレイヤーで語られているという構造だ。国家間の抑止力の計算(パトリオット供与の是非)、統治の正当性と処罰の有無(ヨルダン川西岸)、技術そのものの脆弱性(F-35墜落)、そして国家が個人に手渡す情報という最後の手段(退避勧告)。これらはどれも「安全保障」の名のもとに語られるが、実際に守られる対象は必ずしも民間人ではない。むしろ民間人は、これらの計算の外側に置かれた「与件」として扱われがちだ。

これはフランスにおいても他人事ではない。ウクライナ支援をめぐる欧州の議論は、防空兵器の供与や軍需生産の是非という技術的な問題として語られることが多いが、その決定の遅れが誰の住宅を守れるかを左右しているという事実は、ときに見えにくくなる。

日本の文脈に引き寄せて考えると、また違う難しさが浮かび上がる。憲法上の制約と同盟依存という二つの条件のもとで、防衛力の強化がどこまで実際の市民保護——病院や住宅、避難手段の確保——に結びつくのかは、抽象的な「抑止力」の議論の中でしばしば後回しにされる、と言われることが多い。抑止という言葉は、攻撃を未然に防ぐという意味では確かに市民の安全に資するが、それが実際に機能しているかどうかを誰がどう検証するのか、という制度的な仕組みは別問題として残り続ける。

長距離兵器や無人機が拡散する時代には、前線と後方の境界はますます曖昧になっていくだろう。ガス運搬船へのドローン攻撃のように、実行主体さえ特定できない攻撃が民間インフラを直撃する事態は、今後さらに増えていくと考えられる。国際法という枠組みだけで民間人の安全を保証できる時代は、すでに終わりつつあるのかもしれない。

国家を守るという言葉は、いつも力強く語られる。だが、その言葉が実際に誰かの住宅や、誰かの通勤路や、誰かの避難経路を守れているかどうかを、私たちはどうやって検証すればいいのだろうか。

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