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エッフェル塔を背にした男と、パリから去った女——「安全」はいつも同じ顔をしていない
国際・欧州

エッフェル塔を背にした男と、パリから去った女——「安全」はいつも同じ顔をしていない

2026/8/4

8月3日、ロシアの反体制派ボリス・ナデジディンがテレグラムに投稿した動画には、エッフェル塔が背景に映っていた。63歳の元下院議員は「良いニュースがあります。私は生きていて、自由です。残念ながら、ロシアにはいません」と語った。この一言に、彼がどれだけの緊張を抱えて国境を越えたかが表れている。ナデジディンは「過激主義」で有罪判決を受け、ロシア当局から「外国の代理人」に指定されていた。2024年の大統領選でプーチンと対決しようとした立候補は認められず、9月の下院選への出馬も断念していた。非政府組織OVD-Infoによれば、ロシアでは現在も政治的理由で2,000人以上が拘束されているという。そんな国から逃れてきた一人が、フランスという「自由」の側にたどり着いた——そう見える。

ところが同じ週、フランスから正反対の方向へ「出国」を命じられた人物がいた。クレムリン寄りの論説員クシェニア・フェドロワである。ロシア国営テレビ局RT Franceの前社長で、大富豪ヴァンサン・ボロレが率いるメディアに定期的に出演していた彼女に対し、フランス政府は国外退去命令と資産凍結を科した。彼女はすでに休暇で国外に出ていたときにこの決定を知らされ、「命令が停止または取り消しにならない限り戻らない」と弁護士を通じて表明した。パリ行政裁判所は、彼女が申し立てた緊急停止の訴えを、「極度の緊急性」が証明されていないとして退けている。

ナデジディンは保護され、フェドロワは排除される。どちらも政治的な発言者であり、どちらも自国と緊張関係にある。違うのは、フランス国家がどちらを「脅威」と見なしたか、という一点だけだ。ここで見過ごされがちなのは、この判断が個人の思想の正しさによってではなく、その人物が誰の利益と結びついているかによって下されているという構造だろう。ナデジディンはプーチン体制の被害者として物語化しやすい。フェドロワはクレムリンの発信装置とみなされている。安全保障の名のもとに引かれる境界線は、思想の自由そのものではなく、その思想が誰のために語られているかを基準にしている——そう読むこともできる。

この境界線は、国境の外だけでなく、国内の路上にも引かれている。サルト県ラ・フレーシュでは、市庁舎前を含む中心部の複数の場所で「ネオナチ、ファシスト、反ユダヤ主義的」な落書きが見つかった。ラッサンブルマン・ナシオナル(RN)所属のロマン・ルモワーニュ市長はこれを「共和国の価値、人間の尊厳、そして市の平穏に対する重大な侵害」だと非難し、被害届の提出と除去作業を明らかにした。一方で野党側市議のデルフィーヌ・アンドレスは、「極右の小集団が、このような書き込みを公然と行えるほど、この場所を自分たちの居場所だと感じている」と指摘し、RNの「責任」を問うた。同じ落書きを前にして、一方は個別の逸脱行為として処理し、他方はそれを許す政治的土壌の問題として捉えている。誰の表現が「安全への脅威」として取り締まられ、誰の存在が「環境」として見過ごされるのか——この温度差自体が、安全保障の運用が中立ではないことを示しているように見える。

さらに視点を国境管理そのものに移すと、数字の食い違いが浮かび上がる。スペイン領セウタには、モロッコとの国境を越えて約6万人が流入する前例のない事態が起きた。死者数について、モロッコ政府は11人、スペインは少なくとも72人、モロッコ人権協会は約130人と発表しており、それぞれの数字がまったく噴み合わない。越境者のほぼ全員がモロッコに送り返されたとスペインは説明する一方、モロッコ側はこの危機をソーシャルメディアの「悪意ある利用」や「誤った情報」によるものだと位置づけている。分析者の一人は、モロッコ当局が「人の移動をメッセージの発信に利用している」と指摘した。つまり、国境を越える人の身体そのものが、国家間の外交的圧力の材料として使われている可能性がある、という解釈だ。ここでは「安全」を語る主体が国家であり、越境者本人の生死をめぐる事実さえ、政治的な駆け引きの中で数字として揺れ動いてしまう。

そして表現の制限は、亡命者や移民だけの問題ではない。英国のバンド、マッシヴ・アタックはシンガポールでのコンサート中にパレスチナ国旗を掲げ、「Free Palestine」と唱えたことで警察に拘束され、同国への再入国を禁止された。シンガポール警察は「政治的な大義への支持」と「外国旗の掲示」を問題視し、事前にライセンス条件を把握していたはずだと説明した。バンドは「157カ国が承認する主権国家の旗を掲げるだけで、何らかの法律に違反する可能性があるとは想像していなかった」と述べ、ホテルの捜索やパスポートの一時没収まで受けたと明らかにしている。ここでの「安全」は、テロや暴力の防止というより、公共の秩序と政治的中立性の維持という名目で発動されている。旗という象徴一枚が、国家にとっての「脅威」として扱われうることを、この出来事は示している。

こうして並べてみると、五つのニュースはまるで別々の事件のようでありながら、一つの問いに収束していく。国家が「安全」や「秩序」を理由に人の移動や表現を制限するとき、その判断基準は誰が決め、誰がそれを検証できるのか。フランスの行政裁判所はフェドロワの申し立てを退けたが、それは司法審査という手続きが機能した結果でもある。シンガポールの警察は独自の法解釈で再入国禁止を決めたが、そこに独立した審査があったかは記事からは分からない。モロッコとスペインの間では、誰が「移民」で誰が「危機の演出者」なのかという定義そのものが、外交的な駆け引きの一部になっている。

日本の読者にとって、この構図は必ずしも遠い話ではないかもしれない。難民認定や入管収容の運用をめぐっては、行政裁量の広さや、それを検証する仕組みの弱さが課題になりやすいと一般に言われる。表現の自由についても、何が「公共の秩序」への脅威とみなされるかの線引きは、時と場所によって揺れ動くものだとされることが多い。フランスの司法が今回示したのは、その線引きに対して異議を申し立てる回路が、少なくとも制度としては存在するという事実だろう。問題は、その回路がどれだけ実効的に機能するか、という点に移っていく。

今後、こうした「例外的措置」——外国の代理人指定、国外退去、再入国禁止、国境の即時封鎖——が積み重なるほど、それらは特別な緊急対応ではなく、平時の統治手法として定着していく可能性がある。そうなったとき、誰を脅威と見なすかを決める権力は、ますます広範囲に、そして見えにくい形で行使されるようになるかもしれない。

あなたの国が「安全のために」誰かの声や移動を止めるとき、その判断が正しかったかどうかを、あなたはどうやって確かめるだろうか。

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