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逮捕状は誰にでも出せる。だが、誰にも届かない
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逮捕状は誰にでも出せる。だが、誰にも届かない

2026/8/22

国際刑事裁判所(ICC)の所長は、日本人女性だ。名前をトモコ・アカネという。8月、彼女はアメリカ政府から制裁を科された。米国への入国を禁じられ、世界最大の経済大国における不動産取引や金融取引を凍結された。裁判官が、自分の裁く相手ではなく、裁判所の外にいる超大国から、こうした形で締め出される。これが今、国際法という制度の足元で起きていることだ。

アカネ氏は日本の出版社・文藝春秋を通じて声明を出し、こう述べている。「今回、自分に科された制裁については、ある程度予想していたので、驚いてはいない」。そのうえで、「重要なのは、これが国際的な法秩序の消滅の始まりにならないことだ」と付け加えた。淡々とした言葉の裏には、自分個人への不利益よりも、制度そのものの存続を案じる姿勢がにじむ。制裁はICCの検察次官、セネガル人裁判官のアブドゥライ・セイ氏にも及んでいる。

なぜアメリカはICC所長にまで制裁を科したのか。理由は単純だ。ICCは2024年、ガザでの戦争を理由にイスラエルの首相ベンヤミン・ネタニヤフ氏に対する逮捕状を発行した。アメリカはそもそもICCを設立した国際条約に加盟していない。同盟国イスラエルへの捜査は、アメリカにとって受け入れがたいものであり、今回の制裁は事実上その対抗措置だ。ネタニヤフ氏自身、制裁を主導したマルコ・ルビオ国務長官(当時)を称賛し、ICCの「違法な乱用」への対応だとXで発信している。国連、EU、そして日本は、制裁発表の翌日にアカネ氏への支持を表明した。ここで注目したいのは、日本が加盟国としてだけでなく、自国出身の裁判官が標的にされたという点でも、無関係ではいられない立場に置かれたことだ。

この構図と並べて見ると、興味深いのがトルコの動きだ。トルコは同じ8月、ガザ支援船団の拿捕と活動家の拘束をめぐり、ネタニヤフ氏に対する国際逮捕に向けた手続きを進めると発表した。トルコの法相は、ジェノサイドや人道に対する罪などの容疑で、インターポールに国際手配を要請したと明らかにしている。地中海で拿捕された約50隻の船の乗組員、およそ430人は強制的にイスラエルへ移送され、その後国外追放された。イスラエル首相府はこれに対し、トルコのエルドアン大統領を「反ユダヤ主義の独裁者」と呼び、真っ向から非難した。

つまり、同じ人物に対して、片や国際刑事裁判所という多国間の司法機関が、片やトルコという一国が、それぞれ独自に法的措置を試みている。だが、どちらも実際にネタニヤフ氏の身柄を拘束できる見込みは薄い。国際逮捕状というのは、相手国が協力して初めて意味を持つ。強制力を持つ警察機構を、国際法自体は持っていないからだ。ここで見過ごされがちなのは、逮捕状の「発行」と「執行」の間には、途方もない距離があるという事実だ。発行は法的な意思表示にすぎず、執行は結局、力関係と外交の問題になる。

では、国際法は国家の指導者だけを拘束しようとしているのか。そうではない、ということを示すのが、ガザで国際NGOアムネスティ・インターナショナルが公表した報告書だ。アムネスティは、2025年10月の停戦発効後に、ハマスに関連する部隊が行った9件の超法規的処刑を調査し、非難した。同年10月13日には、ハマスに公然と反対していた一族の8人が、イスラエルへの協力を疑われ、目隠しと拘束をされた状態で公衆の面前で銃撃された。ハマス側は、イスラエル軍によって司法機関そのものが破壊されたため、対応せざるを得なかったと主張し、調査を開始したとしている。だが国連も6月の時点で、ハマスが関与した60件の処刑と深刻な暴力を記録していた。アムネスティの担当者は、これを「重大な人権侵害を行い、報復し、あるいは家族全体を集団的に処罰するための口実だ」と評している。

国家元首への逮捕状、超大国による司法機関への制裁、武装勢力による法の不在を口実にした処刑。この三つを並べると、一つの共通した風景が見えてくる。国際法は、誰に対しても平等に語りかける言葉を持っているように見えて、実際にそれを執行する力は、当事者の軍事力や外交上の立場によって大きく左右される、ということだ。イスラエルの指導者には逮捕状が出ても執行されず、国際刑事裁判所自体がアメリカという非加盟の大国から制裁を受け、ガザの武装勢力は司法機関の不在を理由に自ら処刑を実行する。それぞれの主体が、法的な言葉を使いながら、実際には実力と報復の論理で動いている――そう見えるのは、筆者の解釈にすぎないが、三つの事実を重ねるとその輪郭は否めない。

フランスやEUがICC所長への支持を即座に表明したのは、国際司法制度そのものへの支持を外交原則として掲げてきた立場からすれば自然な反応だろう。ただし、その支持表明が、実際にガザでの戦争や中東の対立構造を変える力を持つかといえば、別の話だ。日本もまた支持を表明した国の一つだが、自国出身の裁判官が制裁対象になったという特殊な事情を除けば、日本が国際司法の実効性そのものを高めるために独自に動ける余地は、外交・安全保障上の制約のなかで限られている、と見るのが妥当だろう。一方でアメリカは、ICCに加盟しないという立場を貫くことで、そもそも自国がこの司法制度の枠外にいることを繰り返し確認している。同盟国への捜査に対しては、制裁という主権的な対抗手段を使う。ここには、国際法を「他国を縛るための道具」として扱いながら、自国はその外側に立つという非対称性が透けて見える。

この先、国際刑事裁判所がイスラエルの指導者を実際に拘束する日が来るとは考えにくい。トルコの逮捕状も同様だろう。むしろ懸念されるのは、こうした逮捕状や制裁の応酬が繰り返されるうちに、国際法という制度そのものへの信頼が摩耗していくことだ。アカネ氏が「国際的な法秩序の消滅の始まりにならないこと」を願うと述べたのは、まさにこの摩耗を見据えてのことだろう。そしてガザの現場では、司法機関の不在という現実の下で、法の言葉を使わない暴力がすでに進行している。

国際法が、超大国にも、その同盟国にも、対立する武装勢力にも等しく届かないのだとしたら、それは一体誰の身を守るための制度なのだろうか。読者の皆さんは、この問いにどう答えるだろうか。

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