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血のつながりが途切れるとき、法は誰の手を取るのか
社会・文化

血のつながりが途切れるとき、法は誰の手を取るのか

2026/7/31

レンヌ郊外のアパートの一室に、開封されないままの保険会社の手紙が置かれている。そのそばには寝間着と眼鏡。部屋の主だった老人は2024年9月に亡くなり、それ以来時間が止まったようになっている。相続系譜調査員のオドレ・リュストルマンは、この部屋で老人の遺影を探していた。身分証用ほどの小さな写真を段ボール箱の底からようやく見つけたとき、彼女はほほ笑んでこう言ったという。「ようやく名前に顔を当てはめられますね」。相続人たちは家具にはさほど関心を示さないが、自分たちが相続する相手の顔には関心を持つことが多いのだそうだ。

この一場面が象徴しているのは、フランス社会が今、相続や家族という制度の土台をどう捉え直しているか、という問いだ。リュストルマンの仕事は、遺言も判明した相続人もいない死者について、4親等、5親等、時に6親等まで親族をさかのぼり、法的に財産を受け取る資格のある人を探し出すことだ。フランスでは毎年15万人の相続人がこうして見つかり、相続税を差し引いた後の資産総額は10億ユーロに上るという。だがこの地道な作業の途中で、彼女はしばしば血縁そのものが持つ複雑さに突き当たる。ある案件では、系図をたどるうちに、ひとりの男性に「公に認められた妻」との子と、内縁関係にあった女性との子がいたことが判明した。婚外子にも嫡出子と同じ相続権があることを、彼女は本人たちに伝えなければならない。それはいつも難しい瞬間だという。

フランス国立統計経済研究所(Insee)の数字が、この難しさの背景を教えてくれる。婚外出生数は1946年以降7倍に、離婚件数は1950年以降4倍に、ひとり親世帯は1975年以降3倍に増えた。つまり、相続という制度が前提としてきた「戸籍上たどれる血縁関係」そのものが、社会の実態からどんどん離れていっている。しかも今では、4件に1件の案件で海外にまで調査が及ぶ可能性があるという。人の移動が活発になるほど、血縁という線は国境をまたいで細く、複雑に伸びていく。

この「誰が家族の代理人たり得るか」という問いは、相続の外側でも噴き出している。歌手エイミー・ワインハウスの父ミッチ・ワインハウスは、娘の元スタイリストと友人が娘の衣服やアクセサリーを無断で売却したとして訴えていた。だが英国の裁判所は7月末、この訴えを退け、逆に父親に対して2人へ合計約95万ポンドを支払うよう命じた。判事は、2人が売却の事実を隠していたわけではなく、父親自身も知っていたと認定し、訴訟そのものを「重大かつ根拠のない」ものと断じた。ここで興味深いのは、争われていたのが単なる金銭問題ではなく、「誰が故人の意思をもっとも正しく代弁できるのか」という感覚のずれだったという点だ。血縁上の父親であることは、必ずしも故人ともっとも近しい関係にあったことを意味しない。娘の晩年に寄り添っていたのは、血のつながらない友人たちだったのかもしれない。法は最終的に、血縁の肩書きよりも、実際の行為と合意の記録を重んじた。

もうひとつ、血縁が持つ意味を裏側から照らし出す事件がある。ヴァール県では、ニューカレドニアとフランス領ポリネシア出身の若い軍人2人が、2022年と2023年に相次いで行方不明になった。捜査の結果、同じひとつの一家の6人が予審開始決定を受け、母親と息子2人は殺害容疑、父親を含む5人は人身取引と組織的監禁の容疑で訴追された。この一家は元軍人の父親を中心に、海外領土出身の若者たちが集まるパーティーに酒や食べ物を「提供」し、自宅に泊める習慣があったという。ある証人は「彼らは私たちの習慣を利用し、宗教について語り、寛大さを示しているように見せていた」と証言している。少なくとも7人の若者が、身分証や支払い手段を徐々に奪われ、暴行や監禁を受けたと捜査員に語ったという。血縁で結ばれた「一家」という単位が、外部から来た若者を取り込み守るはずの居場所を装いながら、実際には搾取の装置として機能していた可能性がある。家族という言葉の温かさそのものが、悪用され得るということを、この事件は突きつけている。

そしてもうひとつ、血縁の途絶えた先にある孤独を映す事件がある。1975年の殺害事件や1980年代のテロ攻撃で終身刑を受け、1994年から収監されているベネズエラ人テロリスト、通称カルロスは、77歳になりアルツハイマー病を患っている。弁護士によれば、彼はもはや自分が誰で何をしたかもほとんど分からず、弁護士の顔さえ認識できない。かつての伴侶は亡くなり、友人の多くは彼を忘れて縁を切った。今、彼の状況を気にかけている人は4、5人しかいないという。弁護士は医療上の理由による釈放を求めているが、パリの裁判所からの回答はない。ここにあるのは、血縁も友情もほぼ消え去った人間を、法と制度がどう扱うべきかという極限の問いだ。誰の生活にも責任を持たれなくなった人間を、社会はどこまで見捨てずにいられるのか。

こうした個々の事件の背後で、フランス政府はまったく違う角度から家族に介入しようとしている。2026年上半期の出生数は約31万4,000人で、前年同期をさらに下回った。2025年通年では64万4,000人となり、出生数がピークだった2010年と比べほぼ4分の1減少している。減少ペース自体は近年より鈍化しているものの、歴史的な低水準を更新し続けていることに変わりはない。マクロン大統領はこの状況を受けて「人口再武装」を呼びかけ、政府は2026年7月から、両親それぞれが最長2カ月取得できる新たな有給の出生休暇を導入した。これは、家族形成をもはや個人の私的な選択に任せきりにせず、国家が支える公共的な営みとして再定義しようとする試みだと読むことができる。ただし、この記事で見てきたように、フランス社会の家族の実態は婚外子、単身の高齢者、血縁によらない疑似家族的な関係、遠隔地から来た若者たちなど、すでに血縁と婚姻だけでは捉えきれないほど多層化している。出生休暇という制度が的を射るのは、あくまで「これから生まれる子とその親」という関係に限られており、すでに存在している多様なケアの形――友人同士の看取り、疑似家族による支え合い、あるいは誰にも支えられない孤独――までは射程に入っていない。

日本ではしばしば、戸籍や婚姻、同居する親族を軸にした制度がなお強く働いているとされる。血縁や法的な婚姻関係を離れた友人やパートナー、ケアを担う非血縁者の存在を、相続や医療同意といった場面で正面から位置づける仕組みは、フランスの相続系譜調査員が向き合っているような多様化にまだ十分に追いついていないと言われることが多い。一方でアメリカでは、家族の形そのものはフランス以上に多様だとされる一方、育児休暇や介護保障が雇用主や個人の所得水準に左右されやすいという指摘もある。つまり「誰と暮らし、誰を家族と呼ぶか」という自由度は高くても、それを支える公的な仕組みが弱ければ、結局は経済力のある人だけが多様な家族のかたちを実際に選び取れる、という不均衡が生まれかねない。

フランスの出生休暇が示しているのは、国家が家族の再生産を支えようとする意志そのものは確かに存在する、ということだ。だがワインハウスの訴訟が示すのは、血縁の肩書きが必ずしも故人ともっとも近い関係を意味しないという現実であり、ヴァール県の事件が示すのは、血縁を装った関係がケアどころか搾取の温床になり得るという恐ろしさであり、カルロスのケースが示すのは、血縁も友情も尽きたときに誰が最後まで責任を持つのかという、制度がまだ答えを持たない問いだ。少子高齢化と人の国際的な移動が進むほど、相続、面会、介護、育児をめぐる制度は、血縁という一本の線だけでは足りなくなっていくだろう。

もしあなたが法律をつくる立場だったら、遺産を受け取る資格や、病床で意思決定を託される資格を、血のつながりで決めるだろうか。それとも、実際に誰が誰の生活とケアに日々責任を負ってきたかで決めるだろうか。この問いに、あなたならどう答えるだろう。

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