遺灰の身元も、編集の独立も、誰が保証するのか
2026/8/6
「私が今、向き合って生きていかなければならない現実は、私の小さな息子サニーが、家族と一緒にいた時間よりも長く、あなたの手元に置かれていたということです」。イングランド東岸ハルの葬儀業者Legacy Independent Funeral Directorsの経営者ロバート・ブッシュ被告に、死産した息子の遺体を託した母ジャスミン・ベバリーさんは、法廷でそう告げた。捜索では腐敗した35体の遺体が床や棚に無秩序に置かれ、100を超える遺灰の包みがカビの生えた箱や床の上に散らばっていた。被害者は12年間で約300人。被告は7月31日、懲役20年を言い渡された。判事は「誰かがすでに料金を支払った棺を再利用できるなら、彼はそうした」と述べている。
人生で最も他人に委ねがたいはずの瞬間――死者を送ること――が、一人の経営者の「純粋な金銭欲」によってこれほど長く見過ごされていた。なぜこんなことが起こり得たのか。判事自身が、長年にわたり「ブッシュがどのように事業を運営していたかについて、完全に監督が欠けていた」と述べている点に、この事件の核心がある。葬儀は民間ビジネスだが、遺族はその内部を検証する手段を持たない。信頼だけが担保だったのだ。
この葬儀業界の話を、同じ週に報じられた他の出来事と並べてみると、奇妙な共通の輪郭が見えてくる。
パラマウント・スカイダンスのCEOデビッド・エリソン氏は8月4日、ニューヨーク・タイムズに寄稿し、1110億ドル規模のワーナー・ブラザース・ディスカバリー買収を擁護した。この買収が実現すれば、CBSニュースとCNNという米国を代表する報道機関が同じ企業傘下に入る。エリソン氏は「本当の問題は、CNNの経営者として私を信頼できるかどうかだ」と自ら認めながら、市場占有率の低さ(動画配信・テレビ視聴時間の20%未満)を根拠に統合を正当化した。だが12の州と脚本家の労働組合は、競争や職業への悪影響を懸念して提訴し、裁判は2027年3月に予定されている。数字上の市場シェアが低くても、報道機関の独立性という別種の価値は、パーセンテージでは測れないのではないか――そこが争点になっている。
FIFA会長ジャンニ・インファンティーノ氏をめぐる疑惑も、構造は似ている。ヨルダンサッカー協会のアリ・ビン・アル・フセイン会長は、「インファンティーノを支持すれば、われわれの協会にとって大きな助けになると口頭で伝えられた」と告発した。同協会はワールドカップ参加に伴う税負担や、アラブカップでの報奨金未払いという経済的困難を抱えている最中だった。会長は支援と支持を引き換えにする「舞台裏の強制」を防ぐため、会長選を秘密投票にしないよう求めている。FIFAという非営利の統治機構でさえ、資金と支持がひそかに結びつく余地を残しているという告発は、市場競争とは別の統治不全の形を示している。
フランスの出版界でも、似た緊張が続いている。ヴィルジニー・デパントやベルナール=アンリ・レヴィらを刊行してきた出版社グラッセを26年率いたオリヴィエ・ノラ氏は、所有者ヴァンサン・ボロレ氏との対立を経て4月に解任された。決定打は、ボロレ氏が一方的に望んだ作家ブアレム・サンサル氏の起用(費用100万ユーロ)と、保守派論客の原稿をノラ氏が拒否したことだった。ノラ氏は7月、資本金1万ユーロで新出版社「バートルビー」を設立し、アシェットの競合エディティスへの参加を協議しているという。この一件が示すのは、出版という文化事業においても、誰が資本を持つかが誰が何を出版できるかを決めてしまう、という単純だが逃れがたい力学である。
そしてもう一つ、料理番組「Top Chef」の元優勝者で星付きシェフのジャン・アンベール氏が、家庭内暴力の疑いで身柄拘束の後、パリ司法裁判所へ移送された。元ミス・フランスのアレクサンドラ・ローゼンフェルド氏を含め少なくとも3件の被害届が出ている。テレビ番組が作り上げた「信頼できる人物像」は、その人物の私生活における行動を保証するものではない。メディアが公共的な検証もなく個人に信用を与え、それが崩れるのは警察と司法が動いた後でしかない――これもまた、同じ問いに連なる事例として読める(この解釈はニュース本文の因果関係を超えた筆者の見立てである)。
報道、スポーツ統治、出版、葬送、そしてテレビが生み出す個人の信用。分野は異なるが、いずれも「信頼が商品そのものである」産業だ。価格や効率で測れる普通の市場とは違い、これらの産業では買い手が事後にしか品質を検証できない。遺族は遺体を検分できないし、視聴者は編集の独立を数値化できないし、加盟協会は会長選の舞台裏を見られない。だからこそ本来、外部からの監督が必要になるはずだが、実際には競争法や刑事司法が事後的に動くだけで、恒常的な監査の仕組みは薄い。
フランスでは、ボロレ氏のような資本家が出版・メディアを傘下に収める動きに対し、編集の独立や被害者保護を問う報道が相応に厚い。ノラ氏の解任は大きく報じられ、作家たちの反応まで追跡されている。これは、文化的多様性や職業倫理を、単なる競争法の話に還元しない土壌があることの表れかもしれない。日本でも新聞・出版・葬儀業の集約は進んでいるとされるが、所有と編集の関係を公開的に検証する仕組みは、フランスに比べて限定的だと言われることが多い。米国では、パラマウントの例のように、巨大メディア統合が言論の多元性そのものを揺るがす政治問題として先鋭化しやすい構造があるようだ。
こうした「信頼産業」の集中がこのまま進めば、価格や効率だけでは測れない編集の独立、利用者の尊厳、監査の透明性が、いずれどの国でも公共的な課題として浮かび上がってくるだろう。遺灰の身元を確認できない遺族、編集の独立を疑われる報道機関、秘密投票の裏で支持を強要される小国の協会。これらは別々の事件だが、根っこには同じ空白――信頼を扱う事業を、誰が日常的に見ているのかという空白――があるのではないか。
人生の重要な局面を扱う民間事業に、私たちはどこまで公共的な説明責任を求めるべきなのだろうか。あなたが遺体を、記事を、あるいは子どもの本を託す相手は、誰に見られているだろうか。