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チェーンソーの音で目覚めた朝、誰が「すみません」と言うのか
複合・横断

チェーンソーの音で目覚めた朝、誰が「すみません」と言うのか

2026/8/9

ステファンとカトリーヌの夫妻が聞いたのは、午前6時ごろの機械音だった。ジロンド県で山火事が鎮圧され、10日前に自宅と厩舎を守り抜いたと安心した翌朝、道路沿いで林業会社が木を切り倒していた。夫妻は木の前に立ち、「もう十分だ、何にも触るな」と叫んだという。それでも作業は止まらず、樹齢100年の松まで伐採された。カトリーヌにとってその森は「静かに暮らすために35年かけて貯めた」ものだった。彼女は積み上げられた木材を写真に撮った。その中には85年もののマツも含まれていたという。

これは山火事の話ではない。延焼防止のために健全な松林約500ヘクタールが緊急伐採された、その後に何が起きたかという話だ。県当局によれば、木材はすぐに搬出されたため印すら付けられず、追跡できないケースもある。所有者は木材がどこに行ったのか尋ねても答えを得られなかった。県は最終的に預金供託金庫を通じて衛星画像に基づく市場価格で補償する方針だが、それは伐採の「後」に始まる話であり、伐採の「前」に何も説明されなかったという事実は変わらない。

同じ週、まったく別の場所で、似た構造の問題が浮き上がっていた。ジェラルド・ダルマナン司法相は、未成年者への性暴力事件の捜査に関する12ページの書簡を内相に送った。ニームの検察が発見した「幽霊」案件は1275件、カーンでは905件。事件として司法当局に登録さえされていない案件の山があるという。6月に少女リアナが死亡したことで、処理中の被害届が8万5047件にのぼることが明らかになったのが発端だった。これは突発的な災害ではなく、何年もかけて積み重なった機能不全が、悲劇によってようやく可視化されたケースだ。ここでも問われているのは同じことだ――被害者や家族に、何が起きていたのかを誰が説明するのか、である。

一見すると無関係な話が、もう二つある。ひとつは、燃料手当の申請期限が2026年8月末まで延長されたという行政ニュース。中東情勢による燃料価格上昇の影響を受けた低所得の長距離通勤者を対象に、政府は当初50ユーロだった手当を100ユーロに引き上げ、期限も繰り返し延長してきた。もうひとつは、ウクライナのゼレンスキー大統領が「無傷の火力発電所はほぼ一つもない」とテレグラムで明らかにしたニュースだ。ロシア軍のほぼ毎日の攻撃で、冬を前に暖房と電力の基盤が破壊されているという。ゼレンスキー氏はセルビアを訪ね、エネルギー協力と人道支援を求めた。

この四つの出来事を並べてみると、一本の線が見えてくる。公共サービスが壊れたとき、あるいは壊されたとき、社会が本当に測っているのは「災害や攻撃を防げたかどうか」だけではない。壊れた後に、誰がその経緯を説明し、誰が修復の責任を引き受けるのか、という点だ。ジロンド県の所有者たちは伐採そのものに反対しているわけではない。事前に相談されず、木材の行方さえ追えないという「説明の不在」に傷ついている。リアナ事件の遺族や被害者たちが問うているのも、捜査の失敗そのものより、なぜそれが何年も報告されず放置されたのかという説明責任だろう。逆に燃料手当の期限延長は、行政が失敗を認めて柔らかく対応した例といえる。そしてウクライナの場合、破壊の主体は明確に外部(ロシア)にあるが、それでも自国民に冬をどう乗り切るかを説明し、国際的な協力を取りにいくのはゼレンスキー氏自身の役割として残る。

フランス国内での受け止め方には、独特の緊張がある。書簡がル・モンドに流出し内容が報じられたこと、県当局が衛星画像で補償額を算定しようとしていること、いずれも「文書化された説明責任」を重視する行政文化を感じさせる。だが同時に、その文書が実際に住民の目に届くのは、多くの場合メディアの報道を経てからだ。当事者たちが政府から直接説明を受けたわけではない、という点は共通している。

日本の読者にとって、ここには馴染みのある緊張と、そうでない緊張の両方があるように思う。一般に日本では、行政の継続性や記録の管理体制が評価されることが多いと言われる。しかしその強みは、被害者への説明や異議申し立ての手続きが形式的な手順に留まりやすいという弱さと表裏一体だとも指摘される。緊急対応の速さと、住民が後から「なぜ」と問い直せる余地を残すことは、簡単には両立しない。米国について言えば、水道などの基盤インフラの管理が自治体や民間事業者に分散している場合が多く、地域の財政力が安全性の差を生みやすいとされる。フランスのように国レベルで一律の補償制度を組む発想とは、そもそも出発点が異なるという構造的な違いがあるのだろう。

ネパールのヤルン・リ峰で見つかった5人の登山家の遺体も、この文脈で読むと違う角度から光を当ててくれる。誰の過失でもない雪崩の犠牲者を、軍・警察・地元住民が力を合わせて捜索し続けた。天候が回復するのを待ちながら、遺体をヘリコプターで搬送する準備が進む。ここには誰かを責める議論はない。それでも、行方不明になった家族に何が起きたのかを伝え、遺体を家族の手に返すという最低限の営みは、やはり公共の機関が担っている。責任の所在がはっきりしない場合でも、説明と回収の責務そのものは消えないということを、この静かなニュースは示している。

これから気候災害が増え、サイバー攻撃や戦争によるインフラ破壊が重なる場面も増えていくとすれば、平時にどれだけ人員を確保し、情報を開示し、補償の手続きを整えておけるかが、社会の復元力そのものを左右することになるだろう。ジロンド県の松林も、リアナ事件の被害届も、ウクライナの発電所も、規模や原因はまったく異なる。しかし共通しているのは、危機そのものより、危機の「後」にどう向き合うかで、公共サービスへの信頼が決まるという事実だ。

あなたの町で同じような失敗が起きたとき、迅速な判断と、住民への説明・異議申し立ての余地は、どちらが先に犠牲になるだろうか。

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