
ロボットを蹴り倒す娘と、10億ユーロを積む大統領——AIは誰の味方なのか
2026/9/8
芝を刈っていた人型ロボットが、突然作動したスプリンクラーで制御を失い、地面に倒れ込む。若い女性がその上に馬乗りになり、首輪とリードをつけ、ゴルフクラブで叩きながら引きずる。彼女はカメラに向かって満足げにこう言う。「彼は従うように設計された。私は違う」。
この映像は、イーロン・マスク氏と絶縁している娘、ヴィヴィアン・ウィルソンが出演したファッションブランド、デシグアルの広告だ。ロボットはマスク氏が手がける「テスラ・オプティマス」に酷似している。ウィルソンは幼い頃、性別移行を理由に父親から「死んだ」とまで言われ、名前と姓を変え、法的に縁を切った人物である。この広告を単なる企業のブランディングとして見過ごすこともできる。しかし「従うように設計された機械」と「従わない人間」を並べて見せるという構図は、いま世界のあちこちで起きているAIをめぐる論争の縮図のようにも読める。誰が、何のためにこの技術を設計しているのか。そして、それに従わない自由は誰に残されているのか。
同じ週、フランス南部のサン=ポール=ド=ヴァンスでは、まったく違う種類の「反抗」が語られていた。エマニュエル・マクロン仏大統領は、映画の未来をテーマにした国際サミット「リュミエール」の開会式で、フランスと韓国が映像産業支援のために5年間で10億ユーロを投じると発表した。資金は「リュミエール・パートナーシップ」という枠組みに充てられ、映像産業と文化的主権を守ることが目的だとされる。マクロン氏は「この技術が作家に取って代わる、あるいは取って代わろうとする道具になったなら、私たちは重大な過ちを犯すことになる」と述べた。共同議長を務めた韓国の李在明大統領も、「人工知能がより責任ある形で、より人間を中心に発展していく時代を開かなければならない」と応じている。
なぜフランスは韓国とこの取り組みを組んだのか。答えの一端は、韓国映画がたどってきた道のりにある。韓国では1922年に始まった映画検閲が、1996年の映画法改正を経て2001年に実質的に廃止された。1997年に選ばれた金大中大統領の政権は、文化政策とは「介入」ではなく「支援」であるべきだという方針を掲げ、その結果、1993年に15.9%だった韓国映画の市場占有率は、2004年には60%近くにまで伸びた。サムスンや大宇といった財閥が映像産業に投資し、釜山では1996年からアジア最大級の映画祭が開かれるようになった。韓国映画振興委員会(KOFIC)のフランス代表は、この組織がフランス国立映画映像センター(CNC)と「同じ理念を共有している」と語っている。つまり、両国が今回手を組んだのは偶然ではなく、「国家が文化を育てる」という発想を、検閲との闘いと軍事独裁からの民主化という異なる歴史を通じてそれぞれ独自に育ててきた者同士の合流だと理解できる。
この発想は、フランスで根強い「文化例外」の伝統——文化を市場原理だけに委ねない、という考え方——と地続きだろう。マクロン氏がAIを前にして「主権」という言葉を使うのは、単に自国の映画産業を保護したいからというより、創作という営みそのものが企業の効率性の論理に飲み込まれることへの警戒を示しているように読める。ここで一つ考えたいのは、この種の公的支援は本当に巨大テック企業への対抗力になるのか、それとも支援を受けられる作家と受けられない作家を新たに選別する仕組みになってしまうのか、という点だ。10億ユーロという金額は大きいが、それが具体的に誰に、どの作品に届くのかは、今回の発表だけでは見えてこない。
日本において、こうした国家規模の文化産業支援とAIガバナンスをセットで語る動きは、まだ同じような形では表面化していないように見える。制作現場の雇用慣行や知的財産保護の議論はあっても、それをフランスや韓国のように「文化的主権」という言葉で束ね、多国間の枠組みとして打ち出す発想は一般的ではないと言われることが多い。むしろ日本の議論は、プラットフォームを運営する海外企業にどう向き合うかという、個別の実務的な課題として現れがちだ。この違いは、文化を守るという営みを「国家の仕事」として位置づけるかどうかという、根本的な国家観の差を映しているのかもしれない。
アメリカに目を向けると、状況はさらに複雑に見える。国連人権高等弁務官のフォルカー・テュルク氏は、ジュネーブで開かれた国連人権理事会で、高度なAIが人類にとって「存亡の危機」になり得るという業界関係者の懸念に自らも同調すると述べた。同氏は名指しこそ避けたものの、OpenAIのサム・アルトマン氏、Anthropicのダリオ・アモデイ氏、そしてXのイーロン・マスク氏を念頭に、「一握りの男性がAIに対してほぼ無制限の権力を握っている」と批判した。「彼らは自由について語りますが、詳しく見れば、それは私たちのデータを利用する自由にすぎない」という言葉は手厳しい。テュルク氏は、規制の導入が遅れれば遅れるほど「大手テクノロジー企業が利益を得る」とも指摘している。
この指摘は、冒頭のロボット広告とも、ヴェネツィア国際映画祭で語られたもう一つの出来事とも響き合う。同映画祭で女優のスーザン・サランドンは、ガザでの戦争と米国のイスラエル支援を批判したことを理由に、最近も役を失ったと明かした。「私を雇わないよう人々に言うエージェンシーがあるからだ。しかし、それが権力構造というものだ」と彼女は述べている。AIの開発を担う企業も、映画に出演する条件を左右するエージェンシーも、それぞれの領域で「誰が語ってよいか」を事実上決める力を持っている。テクノロジーであれ興行であれ、力が一握りの手に集中するとき、そこから漏れ落ちるのは往々にして、既存の権力構造に異を唱える声だという構図が、業種を超えて浮かび上がる。
こうして並べてみると、フランスと韓国が掲げる公的資金による支援も、国連高官が求める国際的なレッドラインも、根っこにある問題意識は同じだと分かる。技術と資本を持つ者が、創作の条件や語る自由の条件までも決めてしまわないようにする、という一点だ。ただし、その手段は国によって驚くほど違う。フランスと韓国は補助金と多国間の制度で対抗しようとし、国連は共通の規制の枠組みを訴え、当のテック企業の内部では、家族関係という極めて個人的な場所でさえ、従うロボットと従わない娘という形で摩擦が表面化している。
今後、この「リュミエール・パートナーシップ」がどこまで実効性を持つのか、そして国連が求める共通のレッドラインに主要国が合意できるのかは、まだ見通せない。確かなのは、AIの学習データや配信網、資金の流れを誰が統治するかという問いが、単なる産業政策ではなく、どんな物語が、誰の声で、どこまで届くのかを左右する問いになっているということだ。あなたが次に映画館やスクリーンで出会う作品は、誰の支援を受け、誰のルールの下で作られたものだろうか。そして、それを決める力は、公的な制度と巨大企業のどちらの手に、どれだけ委ねられているべきだろうか。