「セミナーを2回開いただけだ」——国家がまなざしを向けるとき、自由はどこで止まるのか
2026/7/31
「私は3日間のセミナーを2回運営しただけだ」。フランス海軍航空隊の元戦闘機パイロットは、そう語ったとされる。2018年と2019年、彼は南アフリカ企業から報酬を受けて中国を訪れた。それだけの説明だ。だが2025年7月23日、彼は「外国勢力との通謀」と「国家の基本的利益に関する情報の収集・提供」の容疑で司法捜査の対象となり、司法監督下に置かれた。国防機密の漏えいという訴因も加わっている。事の発端は、フランス軍事省が刑事訴訟法第40条に基づいて2月19日に検察へ通報したことだった。国内治安総局(DGSI)が予備捜査を進め、やがて予審判事の手に渡った。
この一件が興味深いのは、証拠の中身が「セミナーの運営」と「訪中2回」という、それ自体は誰でもやりそうな行為だという点だ。もちろん筆者たちは捜査資料を見ていないし、本人の説明が正しいのか、当局の疑いに根拠があるのかを判断する材料もない。ここで確認できるのは、フランスという国家が、外国との接点を持った元軍人に対して、通報から予備捜査、そして司法手続きへと、段階を踏んで介入する仕組みを持っているという事実だけだ。
同じ週、パリではもうひとつの介入が動いていた。RTフランスの元社長クセニア・フェドロワ氏に対し、フランス政府が閣僚令による国外退去処分を出したのだ。フェドロワ氏はCNewsやEurope 1といったフランスの主要メディアで論説を担当してきた人物で、RT France自体はウクライナ侵攻後にフランスで禁止されている。政府は彼女を「クレムリンのプロパガンダの伝達役」とみなした。本人は決定を争う構えだ。
興味深いのは、この処分に対する国民連合(RN)の反応だった。RN会派報道官のトマ・メナジェ議員は、フェドロワ氏の「ウクライナとロシアの紛争に対する見方」は共有しないとしつつ、「彼女は国外退去の基準に該当した」と述べ、政府の判断を「都合に合わせた決定だとは思わない」と評価した。そのうえで、「偽情報」や「人工知能の時代」における「さまざまな干渉から身を守ることが急務だ」と語り、ロシアがフランス本土や海外領土、さらにはアフリカ諸国との関係にまで影響を及ぼそうとしていると主張した。移民や国境管理に厳しい立場を取ることの多いRNが、外国人の国外退去という「国家の強制力の行使」については与党と足並みを揃えた格好である。ここに、フランス政治における一種のねじれた合意——移民規制と防諜・公序維持は、党派を超えて共有されやすい論理だという構図——が透けて見える、というのは筆者の解釈だ。
なぜフランスでは、こうした介入が比較的すんなりと受け入れられるのか。断定はできないが、ひとつの手がかりは「共和政の公序」という発想にあるように思える。国家の独立と統一性を守ることは、個人の自由と並び立つ別個の公益であり、外国勢力との「通謀」や「干渉」が疑われる場合には、行政措置(国外退去)と司法捜査(機密漏えい捜査)の両輪が動く。フェドロワ氏のケースでは行政が、元パイロットのケースでは司法が前面に出ているが、どちらも「外国とのつながり」を起点にしている点で共通している。
では日本ではどうか。ここでは具体的な事案は示されていないので、あくまで一般的な傾向として述べるにとどめたい。日本では、外国勢力の影響工作や情報収集に対応する法制度は、フランスのような防諜法制と比べると限定的だとされることが多い。その一方で、安全保障を理由とした秘密指定や、入国・在留管理における行政の裁量については、判断の根拠がどこまで公開され、当事者がどのように不服を申し立てられるのかという透明性の面で、なお課題が指摘されることがある。つまり日本は「介入の武器」が少ない代わりに、数少ない武器の使い方を検証する仕組みも発展途上にある、という言い方ができるかもしれない。これはあくまで一般的な見立てであり、フランスの事例のような具体的な数値や制度比較の裏付けがあるわけではない。
アメリカに目を移すと、性質の異なる、しかし同じ問いを含む事案がある。2022年にニューヨークで作家サルマン・ラシュディ氏を刃物で襲撃したハディ・マタル被告は、7月29日、テロ行為で有罪となった。彼はすでに殺人未遂で懲役25年の判決を受けていたが、今回は連邦レベルで、ヒズボラへの物的支援の試みや国境を越えるテロ行為の罪に問われ、終身刑の可能性がある。検察側は、1989年にホメイニ師が『悪魔の詩』の著者に出したファトワと、被告の自宅から見つかったヒズボラ関連の品々を根拠にした。弁護側は、被告は本への怒りに駆られただけで、組織のために行動したのではないと主張し、控訴する方針だという。
この事件そのものは「国家が誰かを取り締まる」話ではなく、逆に「表現者を襲った者を、国家がどう裁くか」という話だ。だがここにも同じ緊張関係が潜んでいる。宗教的・政治的な動機による暴力を「テロ」という枠組みで裁くことは、暴力への抑止として機能しうる一方で、動機の解釈——ファトワへの共感をどこまで組織的関与とみなすか——次第では、線引きが曖昧になりうる。アメリカでは一般に、国家安全保障を理由とする措置が、報道機関や大学、移民コミュニティーに萎縮効果を及ぼすという批判が繰り返し起きてきたとされる。今回の判決がそうした議論に直結するとまでは言えないが、「思想と暴力と国家の裁き」という組み合わせ自体は、その構図と地続きにあるように思える。
こうした個々の事案の背後には、より大きな地殻変動がある。同じ週、ウクライナではロシア軍の夜間攻撃で少なくとも8人が死亡し、そのうち6人はクリヴィーイ・リーフ近郊に住む一家族だった。欧州理事会のアントニオ・コスタ議長は、この攻撃とポーランド領空の侵犯を「欧州全体の安全保障に対する脅威」だと非難した。中東では米国がイラン国内の「数十の標的」を空爆し、ケシュム島では一家3人が死亡したと伝えられている。これらは表現や移動の自由をめぐる話ではない。だが、戦争と情報工作が地続きになっている現在の欧州において、「外国からの干渉」への警戒が高まること自体は、想像に難くない。フェドロワ氏や元パイロットの事案が、まさにこの緊張した空気の中で処理されていることは、偶然ではないのかもしれない——これは筆者の推測にすぎないが。
問題は、こうした警戒がどこまで正当な防衛であり、どこから恣意的な排除に転じるのかを、誰がどう検証するかだ。フェドロワ氏は決定を争う方針であり、元パイロットは容疑を否認している。マタル被告の弁護側も控訴する構えだ。つまりすべての事案で、当事者は国家の判断に異議を申し立てる回路をまだ持っている。この「異議申し立ての回路が機能しているかどうか」こそが、安全保障と自由の境界線が信頼に値するかどうかを分ける、と言えるのではないか。
外国の干渉から民主社会を守る必要があるという主張そのものは、フランスでもアメリカでも、そしておそらく日本でも、多くの人が頷くところだろう。だが、その必要性を口実にした判断が、どんな証拠に基づき、誰の目にさらされ、どう覆されうるのか。あなたの国では、その答えをどれだけ具体的に説明できるだろうか。