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門は開いた、でもレースはまだ公平ではない――女子ツール・ド・フランスが映す「参加の格差」
社会・文化

門は開いた、でもレースはまだ公平ではない――女子ツール・ド・フランスが映す「参加の格差」

2026/8/6

8月5日水曜、ベルヴィル=アン=ボジョレーでのゴール。デミ・フォレリングが渾身のスプリントで3人の優勝候補を振り切り、女子ツール・ド・フランス第5ステージを制した。同じ日、前回優勝者のポリーヌ・フェラン=プレヴォは先頭から2分35秒遅れでフィニッシュし、連覇の夢はほぼ絶たれた。トップ選手たちが山岳ステージで数十秒を削り合う、その同じレースの別の場所では、22歳のソレーヌ・ミュレールが合宿にノートパソコンを持ち込み、農学修士課程の課題をこなしている。「朝にトレーニングをして、午後は仕事に行きます。他の選手たちが回復に専念している間、私は働いているんです」と彼女は語った。

同じレースに出場している、という一点では、二人はまったく平等だ。だが、そこに至るまでの日常は驚くほど違う。ミュレールと同じくプロ3年目のオセアン・マエは「最低賃金を少し上回る程度」の収入だと明かし、「エンジニアだったら、もっと稼いでいるでしょう」と苦笑する。女子選手には2020年から最低給与が定められ、以後(2026年を除き)毎年引き上げられてきた。制度は前進している。しかし制度が前進したことと、実際に対等な条件で走り続けられることの間には、まだ大きな隙間が残っている。ここで見過ごされがちなのは、レースへの「参加資格」がすでに保証されていても、その参加を支える生活基盤――収入、時間、将来の見通し――が選手によって大きく異なっている、という事実だ。

この隙間は、自転車競技だけの話ではない。同じ週、フランスの水泳連盟は、芸術水泳の17歳選手ミラン・ヴィオロンへのヘイトコメントを「最大限の厳しさで」非難した。団体種目への男性の参加は2015年に制度上認められている。だが今回の欧州選手権で男子選手を含んでいたのは、出場8チームのうちわずか3チーム。ヴィオロン選手は決勢後、ソーシャルメディア上で性差別的なコメントの標的になり、「私はほかとは違う競技をしていて、女子選手たちの中にいる男子です。それでも強い姿を見せています」と語った。制度が「入ってよい」と認めてから10年経っても、実際に足を踏み入れた者への視線は、必ずしも同じスピードで変わらない。門が開いていることと、そこを通った人が安心して立ち続けられることは、別の問題なのだ。

さらに視点を広げると、この「参加の公平さ」というテーマは、スポーツの現場だけでなく、その運営を司る組織の内部にも及ぶ。ヨルダンサッカー協会の会長アリ・ビン・アル・フセインは、FIFA会長選でジャンニ・インファンティーノを支持しなければ協会への支援を得られない、という「脅迫」があったと告発した。協会はワールドカップ出場に伴う税負担や、アラブカップの報奨金未払いにより経済的に苦しい状況にあるという。会長は投票の秘密性が「舞台裏の強制」を許していると批判し、公開投票を求めた。ここでも、加盟協会としての投票権という「制度上の参加資格」はすでに保証されている。だが、資金力という別の力学が働く場では、その一票が本当に自由な一票であり続けられるかどうかは、まったく別の話になる。

フランスでこれらの出来事が同じ時期に報じられたことは、偶然かもしれない。しかし三つの事例を並べてみると、共通する構造が見えてくる。女子選手の待遇、男性選手への社会的視線、加盟協会の投票の自由――いずれも「参加できるかどうか」という一次的な扉はすでに開かれている。問われているのは、その扉を通った後に、対等な条件で発言し、走り続け、評価されるかどうかという二次的な公平さだ。フランス社会は伝統的に、法や制度における形式的な平等(égalité)を重視する傾向が強いと言われることが多いが、今回の三つの事例は、その形式的平等がしばしば実質的な不平等を覆い隠してしまう危うさを示しているようにも読める。これはあくまで筆者の解釈だが、報じられた三つの出来事に共通する構図として指摘できるだろう。

日本に目を移すと、事情はまた違った形で表れるだろう。制度上の参加機会――女性のスポーツ参加や、地方からの進学・就職の機会――は一般に整いつつあると言われることが多い。しかし、性別による役割分担の意識や、地域・所得による格差が、参加を「続けること」を難しくする場面は少なくないとされる。一度扉が開いても、家庭や職場での期待、経済的な負担が、継続的な参加を静かに阻んでいく。これは今回のフランスの事例が示す構図と、驚くほど響き合う。制度の設計者が「もう平等になった」と考えた瞬間が、実はまだ道のりの途中でしかないという点で、両国は似た課題を抱えているのかもしれない。

米国では、スポーツや選挙といった参加の場が市場の論理と強く結びつく傾向があると一般に言われる。大学スポーツの奨学金や資金力の差、選挙運動における資金調達力の違いが、形式的には誰にでも開かれているはずの舞台での実質的な機会の差を広げることがあるとされる。今回のヨルダン協会の告発は、FIFAという国際組織の内部でも、資金という力学が投票の自由をゆがめかねないことを示しており、米国的な「市場化された参加」の問題と、遠く重なる部分があるように見える。

これから先、女子選手への最低給与の引き上げや、水泳連盟による差別的投稿の告発といった対応は、いずれも参加者を守るための具体的な一歩として続いていくだろう。だが、それだけで参加の公平さが完成するわけではない。扉を開けたあとに、選手が仕事を辞めずに走り続けられる収入があるか、男子選手が偏見なく演技を続けられる空気があるか、加盟協会が資金の圧力なしに一票を投じられるか――こうした「参加の質」を測る指標がなければ、制度の前進は数字の上でしか意味を持たない。

参加できることと、対等に参加し続けられることの間には、まだ埋まっていない溝がある。あなたの身の回りでも、「機会は平等なはずなのに」と感じる場面が、案外近くにあるのではないだろうか。

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