AntenneFrance

助けを求める声さえ持てない人を、誰が保護するのか
社会・文化

助けを求める声さえ持てない人を、誰が保護するのか

2026/8/8

真夜中の1時20分、トゥールーズのラ・フォレット地区で複数の銃声が響いた。狙われたのは1人の未成年者で、今も生死の境にいるという。逃走した車からは、カラシニコフ型の突撃銃と防弾ベストが見つかり、逮捕された24歳の男は「Instagramで勧誘された」と供述したという。麻薬取引の絶えない地区で、SNSを通じて少年たちが暴力の駒として吸い上げられていく構図が、この一行の供述から見えてくる。これは筆者の推測だが、事件そのものは、大人の縄張り争いの最前線に子どもが立たされている現実を突きつける。

同じ週、フランスのニュースにはもう4つの出来事が並んでいた。イヴリーヌ県では、58歳の体操指導者が約10人の未成年女子への性的暴行・嫌がらせの疑いで正式な捜査対象となった。ボルドー・グラディニャン刑務所では、定員633人に対し1,188人が押し込められ、行政裁判所が「明確な緊急事態」だとして衛生・食事・医療移送の改善を法相に命じた。バチカンは、9月末のフランス訪問中にレオン14世教皇が教会内性的虐待の被害者と非公開で面会すると発表した。そしてスペイン領セウタでは、単独で到着した移民の未成年者が1,000人を超え、施設の占有率は「危険水準の2600%」に達し、路上で夜を過ごす子どもたちが出ている。

一見、事件も場所もまったく別の話に見える。銃撃事件は治安の問題、体操指導者の件は個人の犯罪、刑務所は行政の不作為、教皇の訪問は宗教史の一幕、セウタは移民政策の混乱——そう分類してしまえば、それぞれ別の記事として読み流されてしまうだろう。しかし並べて見ると、共通しているのは「被害者や弱い立場の人が、自分から声を上げられる状態にあるとは限らない」という一点だ。生死をさまよう未成年者は証言できない。10人前後の女子生徒は、指導者という権力関係の中で長く沈黙していたはずだ。過密した刑務所の受刑者は、床で寝ながら自分の権利を主張する手段をほとんど持たない。教会内虐待の被害者は33万人という推計が出るまで、声が可視化されなかった。セウタの子どもたちは、聞き取りを行う人員が足りないという理由だけで、路上に留め置かれている。

ここで見過ごされがちなのは、これらのケースで制度が動いた「きっかけ」が、被害者自身の訴えというより、外部からの介入だったという点だ。刑務所の改善命令は、国際刑務所監視機構とボルドー弁護士会が総監の報告書を受けて申し立てたことで裁判所が動いた。教皇の被害者面会は、ベタラム施設の被害者団体が書簡で要請を重ねた末に実現した。体操指導者の捜査も、司法当局の把握によって初めて外部に伝わった。つまりフランスでは、独立した監視機関、司法、報道が三重に絡み合うことで、当事者が声を上げにくい構造そのものを補う仕組みが、不完全ながら機能している。国家や組織が「義務を果たしているか」を問う視点が、制度の設計図に組み込まれていると言えるだろう。

この視点は、日本の読者にとってはやや距離のある発想かもしれない。日本でも児童虐待や性被害への相談窓口は近年拡充されてきたが、一般に相談先が複数の機関に分かれ、地域によって支援の手厚さに差があると指摘されることが多い。フランスのように、独立した監視機関が刑務所や教会という「閉じた組織」の内部にまで踏み込み、行政裁判所に緊急措置を命じさせるという構図は、日本では制度上の位置づけが異なるはずだ。もっとも、これは筆者の印象に過ぎないが、声を上げる力そのものを奪われた人——寝たきりの受刑者、指導者に依存する子ども、言葉の通じない移民の未成年者——に制度が「自動的に」届く仕組みを持っているかどうかは、どの国でも同じ問いとして残る。

セウタの事例は、この問いをさらに際立たせる。未成年者は自動的に保護の対象となり、成人のように即時送還はできない——これはスペインの制度上の原則だ。原則自体は「弱い立場の人を自動的に守る」という発想の表れであり、評価できる仕組みのはずだ。しかし原則があっても、受け入れる施設と人員が足りなければ、原則は路上で夜を過ごす子どもたちを守れない。セーブ・ザ・チルドレンが指摘するように、女子は性的暴行や人身売買の危険にさらされる可能性がある。制度の「意図」と「実行力」のあいだにある溝こそが、この一連のニュースを貫くもうひとつの共通点だろう。

今後、ボルドーの刑務所がどこまで改善されるか、体操指導者の捜査がどのような結論に至るか、教皇とベタラムの被害者団体との面会がどのような形で実現するか、セウタの未成年者がスペインの他地域へ移送されるかどうか——これらはいずれも、9月から秋にかけて具体的な動きが見えてくる話だ。ひとつひとつの結末は違うだろうが、共通して問われているのは同じことだ。証拠を出せる被害者、声を上げられる被害者だけでなく、声を上げる力そのものを奪われた人にまで、制度は本当に手を伸ばしているのか。

読者の皆さんが暮らす場所で、もし同じように「声を上げられない誰か」がいたとしたら、その人に気づき、動くのは誰の役割だろうか。制度なのか、隣人なのか、それとも偶然目撃した誰かの一報なのか——考えてみてほしい。

フランスメディアの関連記事