「お尻を撮影されたくない」――身体の尊厳は、誰が決めるものか
2026/8/9
「私はスポーツをしているのであって、下からお尻を撮影されたくはありません」。フランスの棒高跳び選手マリー=ジュリー・ボナンは、そう言い切った。8月10日から英国バーミンガムで始まる欧州陸上競技選手権を前に、欧州放送連合(EBU)が公表した放送指針を歓迎する発言だった。彼女はすでに、自分の映像がYouTube上でまとめられ、性的な文脈で拡散されるのを見てきたという。ショーツを履いて競技すること自体は誇りだが、その身体を勝手に切り取られ、意味のない映像に加工されることには耐えられない――この一文には、今週フランスから届いた複数のニュースを貫く問いが、すでに凝縮されている。
同じ週、パリでは欧州水泳選手権が開催されていた。セーヌ川に設置された高さ20メートルの台から、選手たちが時速約70キロで水面に飛び込むハイダイビングが観客を熱狂させている。「まるで自動車事故です」とフランス代表のマドレーヌ・バヨンは語った。壁にぶつかるような衝撃を受けながら、それでも彼女たちは飛ぶ。だからこそ主催者は、選手が身体を壊さないよう競技日程を数日に分け、理学療法士を帯同させ、入水地点には救助ダイバーを常時配置する。同じ大会で、4度の五輪王者レオン・マルシャンは、内転筋のけがの再発リスクを理由に、200メートルと400メートルの個人メドレーを欠場すると発表した。フランス水泳連盟の医師は「再発のリスクがゼロではない」ことを明言し、大会全体を見据えて出場を見送る判断を後押しした。
この三つの出来事――映像による性的な切り取りを拒む選手、危険な競技を支える医療体制、そして自分の身体の限界を理由に「出ない」と言える選手――は、種目もテーマも違う。だが並べてみると、そこに一本の線が見えてくる。身体は、成果や映像を生み出すための道具ではなく、本人が「これ以上は無理だ」「これは見せたくない」と言える権利を持つ主体だという発想だ。マルシャンの欠場は、勝利への期待を背負う4度の五輪王者であっても、けがの再発というリスクの前では「出ない」という選択が制度的に認められることを示している。ハイダイビングの安全体制は、危険を伴う競技であっても、選手の身体が壊れないように環境を整えるのは組織の責任だという前提に立っている。そしてEBUの放送指針は、競技する身体を、視線の対象として消費してよいものとは区別している。
もっとも、この理念がすんなり受け入れられたわけではない。EBUの指針が発表された直後、SNSでは「これでは競技が面白くなくなる」「選手が服装を変えればいい」といった反応が相次いだ。英国の短距離選手エイミー・ハントは、「安心していられるように、私たちが服装を変えなければならないはずはありません」と反論している。問題は選手の服装ではなく、撮る側の視線にあるという指摘は、身体の尊厳をめぐる議論が、当事者ではなく周囲の側の変化を求めるものだということを浮かび上がらせる。
この視点をさらに広げると、濱口竜介監督の新作『突然』が描くのは、身体の尊厳が競技や映像の場だけでなく、人生の終わりにも関わる問題だということだ。舞台はパリの高齢者施設。施設長マリー=ルーは、触れること、語りかけること、目を合わせることを通じて入居者の人間としての尊厳を守る「ヒューマニチュード」という方法を導入しようとするが、人員不足に苦しむ現場では簡単に受け入れられない。末期がんを患う日本人演出家マリとの対話を通じて、彼女は「不可能を可能にする道」を探っていく。ここで問われているのは、身体機能が低下した高齢者に対しても、単なる作業としてではなく、人と人との関係としてケアを行えるかどうかという、制度と資源の問題だ。競技の場での「拒否する権利」と、介護の場での「尊厳を保つ権利」は、驚くほど近い場所に立っている。
そして、この理念がもっとも痛切に試されるのが、ジェラルド・ダルマナン司法相が内相に送った書簡が指摘する現実だ。6月にLyhannaという少女が死亡した事件を受け、未成年者への性暴力に関する被害届8万5047件が処理中であることが明らかになった。その後の検証で、司法当局に登録されないまま放置された「幽霊」案件が、ニームで1275件、カーンで905件見つかったという。手続きが完全に紛失していたケースもある。ここには、選手が「撮影されたくない」と言える権利や、負傷した選手が「出ない」と選べる制度とは対照的に、被害を訴えても記録すら残らないという、身体の尊厳がもっとも守られていない現場がある。放送指針や医療体制が「守るための制度」を積み上げている一方で、司法の現場ではその制度そのものが機能不全を起こしている――この落差こそが、今週のフランスのニュース群が図らずも示してしまった構図なのではないか。
日本の読者にとって、この対比はどう響くだろうか。日本では、部活動や競技の現場で「けがを理由に休む」ことが、本人の判断としてすぐに認められるとは限らない、という声がしばしば聞かれる。競技への献身や忍耐が美徳とされる文化のもとでは、マルシャンのように医療スタッフと相談して欠場を決める、という選択が、必ずしも同じように尊重されるとは限らないのかもしれない。同様に、被害を語ることについても、組織や集団の和を優先するあまり、当事者が沈黙を強いられやすい構造があるとされることが多い。もちろん、これはフランスの個別事例から一般化できることではないが、身体の尊厳を「本人が拒否できるかどうか」で測るという視点は、日本の組織文化を照らす鏡にもなるはずだ。
これらのニュースが示しているのは、身体の尊厳を守るという理念そのものが目的化してはいけないということだ。理念を掲げるだけでは、ニームやカーンで見つかった「幽霊」案件のような機能不全は防げない。制度が本当に機能しているかどうかは、選手が結果を出したかどうかではなく、傷つく前に「休みたい」「見せたくない」「助けてほしい」と言った瞬間に、誰がそれを受け止め、記録し、動くかによって決まる。
読者のみなさんが日々関わる組織――学校、職場、地域のスポーツクラブ――で、誰かが「これ以上は無理だ」と言ったとき、その声はきちんと記録され、次の行動につながっているだろうか。それとも、記録されないまま静かに消えていく「幽霊」になっているだろうか。