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太陽光パネル10枚と、記者ひとりの死——安全保障が「守るもの」を問い直す
複合・横断

太陽光パネル10枚と、記者ひとりの死——安全保障が「守るもの」を問い直す

2026/8/7

8月6日、ヨルダン川西岸南部の小さな集落ハルベト・アルトゥバで、約100人が暮らしを支えていた太陽光パネルが壊された。数は約10枚。夜になれば水を汲むポンプも冷蔵庫も動かない。住宅3軒は焼け、住民のラドワン・アブ・ジュンディさんは妻と娘が負傷したと語っている。イスラエル軍はこの襲撃を「強く非難する」と表明し捜査を始めるとしたが、パレスチナ人や人権団体は、こうした捜査が実際の訴追に至ることは稀だと指摘している。

この一件だけを読むと、中東の地域紛争のひとつの挿話に見える。だが同じ週に世界各地から届いたニュースを並べてみると、まったく違う地域で、まったく違う当事者が関わる出来事なのに、ひとつの共通した問いが浮かび上がってくる。それは、国家が「安全保障」を名目に行動するとき、その影響は最終的にどこまで民間人の生活に及び、誰がそれを検証するのか、という問いだ。

レバノン南部では、4月に起きたイスラエル軍の攻撃で女性記者アマル・ハリルさんが死亡し、同行のカメラマンが負傷した。ヒューマン・ライツ・ウオッチとアムネスティ・インターナショナルは、この攻撃を「民間人に対する明らかに意図的な攻撃」であり「戦争犯罪に当たる」と評価した。ふたりは前方の車両が攻撃を受けた後、建物に避難していたが、その建物も標的とされたという。イスラエル軍はヒズボラ関連施設を出た車両を攻撃したのだと説明し、救助妨害は否定している。人権団体側は、低空飛行するドローンが使われていたことを根拠に、軍が民間人の存在を知っていたか、知るべきだったと主張する。ジャーナリスト保護委員会によれば、2023年10月以降、レバノンでイスラエルによって殺害されたジャーナリストと関係者は15人にのぼる。

キューバでは、爆撃も銃撃もない。だが国連の独立専門家たちは、米国の制裁が同国を「重大な危機」に陥れる恐れがあると、国際社会に迅速な行動を呼びかけた。今年1月以降のエネルギー封鎖によって石油製品の供給が絶たれ、電力、水、食料、灌漑といった生活の基盤が揺らいでいるという。専門家らが特に強調したのは、女性、子ども、高齢者という「脆弱な立場にある人々」への打撃だ。「食料を政治的圧力の手段にしてはならない」という彼らの言葉は、軍事的な脅威という言葉が一切出てこないまま、安全保障政策の影響が民間人の生存条件そのものに及んでいることを示している。

そして日本。広島で開かれた原爆投下80年の追悼行事は、今年は高市早苗政権の軍事政策への抗議に包まれた。政府は週の初めにトマホーク巡航ミサイルの試験成功を発表し、中国を念頭にしたメッセージだと報じられている。防衛予算は倍増し、殺傷兵器の輸出も認められた。被爆者の佐久間邦彦さんは「相手国が軍事力を持っているのだから日本も持たなければ対話はできないという前提は間違いだ」と語り、ある30代の平和活動家は「もはや平和主義の国とは言えない」とまで言い切った。同じ週、北朝鮮は元山地域から短距離弾道ミサイルを発射し、日本海上空を通過させた。これは、北朝鮮が日本を「好戦的な国家」と非難した翌日の出来事だった。日本の防衛相・小泉進次郎氏は防衛白書の序文で「これまで以上に強い危機感と緊張感を持って、防衛能力をさらに強化・変革することが不可欠だ」と述べている。

ここで見過ごされがちなのは、これら5つの出来事が、まったく違う政治体制・地域・当事者を扱っているのに、同じ構造の緊張を抱えていることだ。国家(あるいは軍事同盟)は、自らへの脅威を根拠に行動する。その行動は、標的とされた側の民間インフラ――電力、水、食料、報道、住居――に直接影響を及ぼす。そして、その影響が「やむを得ない副作用」なのか「法の支配に対する重大な違反」なのかを判定する役目は、当事国自身ではなく、国連の専門家、人権NGO、国際メディア、あるいは他国の市民社会に委ねられている。ハルベト・アルトゥバの太陽光パネルを壊した「容疑者」を誰が起訴するのか、レバノンでの攻撃を「戦争犯罪」と呼ぶかどうかを誰が最終的に決めるのか——これらの問いに、当事国以外の第三者の検証がなければ答えは出ない仕組みになっている。

フランスやEUがしばしば取る立場は、制裁や外交的圧力という手段を使いながら、その効果や適法性の検証は国際機関や市民社会に委ねる、というものだ。今回のキューバに関する国連専門家の声明も、米国という当事国とは別の立場から発せられている。つまり検証機能そのものが、当事国の外側にあることを前提にした仕組みなのだ。これは裏を返せば、国際機関や人権団体の発言力が弱まれば、検証そのものが成立しなくなるという脆さも意味している。

日本の状況は、この構図の中でやや特異な位置にある。広島のデモが示しているのは、抑止力の強化という安全保障政策そのものへの異議だ。北朝鮮のミサイル発射という具体的な脅威が存在する一方で、被爆の記憶を持つ市民たちは、軍事力の増強が平和を保障するという前提そのものに疑問を投げかけている。防衛能力の強化と、平和主義という価値観のあいだの緊張は、日本社会の内部で今まさに言語化されつつある論点だと言えるだろう——もっとも、この緊張をどう解決すべきかについて、今回のニュースの範囲では特定の結論は示されていない。

米国について言えば、軍事力と制裁という二つの手段を最も広範に行使できる立場にありながら、その行使が国外の民間人に及ぼす影響への説明責任は、キューバの例が示すように、当事国自身からではなく国連という外部の枠組みから問われている。制裁は爆弾のような即時性を持たないぶん、その被害が「安全保障政策の結果」として認識されにくいという特徴もあるのかもしれない。これは推測だが、電力が止まり食料が届かないという事態が、軍事攻撃と同じ重みで報じられにくい構造が、そこにはあるのではないか。

これから先、武器や物流、そしてエネルギー網や情報空間がますます民間生活と直結していくなら、安全保障政策を「防衛能力の強化」という一面だけで評価することは、ますます難しくなっていくだろう。太陽光パネルの破壊も、記者の死も、制裁による停電も、そして日本のミサイル試験も、すべてが「誰の生活が、誰の判断によって、どこまで影響を受けるのか」という同じ座標軸の上に並んでいる。

国家の抑止力を必要なものとして認めるとしても、民間人の保護をその陰に置かないための検証の仕組みは、いったい誰の手に、どのような形で残されているのだろうか。読者のみなさんは、自分の国の安全保障政策を評価するとき、その「効果」と「影響」のどちらを先に問うだろうか。

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