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氷河が溶ける音と、パリで鳴り響くセリーヌ・ディオンの拍手――気候のツケは誰の財布から出るのか
エコロジー

氷河が溶ける音と、パリで鳴り響くセリーヌ・ディオンの拍手――気候のツケは誰の財布から出るのか

2026/9/13

ノルウェー領スヴァールバル諸島で、1922年と2024年に同じ場所を撮った写真を並べると、そこにあったはずの氷の壁が消え、山肌だけが残っている。100年余りでこの土地は姿を変えた。それでも観光客は年々増え続けている。ホッキョクグマとクジラを見るための船が出港し、かつて石炭採掘で成り立っていた町ロングイェールビーンの経済は、いまや氷が消えていく光景そのものを売り物にしている。皮肉なことに、この地を壊しているはずの温暖化が、この地を食べさせている。

同じ頃、フランス南部ではメテオ=フランスが週明けに35°Cの高温を予報していた。9月にもかかわらず、タルン県ラヴォールでは40.3°Cという9月の月間記録が更新された。今年の夏はすでに三度の熱波を経験している。そして7月22日、ジロンド県で発生したサウモスの森林火災は4万2,000ヘクタールを焼き、8月1日にようやく鎮圧された。ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏は先週、被災企業と森林の再建に向けて総額1,050万ユーロの支援計画を発表した。融資、保証基金の拡充、木材の一時保管、そして松林の緩衝地帯づくりの実証実験――地域圏はこれを自前でやりくりしながら、同時に国と欧州に対して水上爆撃機の常設基地や地方分権の強化を求めている。つまり、火を消したあとの請求書は、まず地域が受け取っているということだ。

この二つの光景――氷が消える北極と、木が焼ける南仏――は、一見すると気候変動という同じ現象の別々の断面にすぎない。しかし、もう少し目を凝らすと、そこには共通する構造が浮かび上がる。被害と復旧の負担を引き受けるのは、いつも「そこに住んでいる、そこで働いている」人々であり、その被害を生み出す消費や経済活動は、多くの場合、まったく別の場所で行われているということだ。

そのことを一番わかりやすく見せてくれるのが、同じ週にフランスで報じられていた、もう一つの、まるで無関係に見えるニュースだった。セリーヌ・ディオンが9月12日、パリ郊外ナンテールのプレニチュード・アリーナで16公演を開始した。この一連の公演がもたらす経済効果は、チケット販売や宿泊、交通まで含めて5億7,000万ユーロから12億ユーロにのぼると試算されている。長期公演というビジネスモデルはラスベガスで生まれ、いまや世界に広がっている。象徴的なのが、23億ドルをかけて建設されたラスベガスの巨大施設スフィアだ。年間で2万世帯分に相当する電力を消費するというこの施設は、エンターテインメントの規模拡大が、そのままエネルギー消費の規模拡大と直結していることを示している。ファンが飛行機に乗り、ホテルに泊まり、巨大スクリーンの前で歓声を上げる――そのすべてが、どこか遠くの発電所とつながっている。

さらに視点を広げると、国際エネルギー機関(IEA)は、2026年に世界の石炭需要が史上最高を更新する可能性が高いと予測している。理由として挙げられているのは、中東戦争とホルムズ海峡の混乱、そしてそれに伴うLNG供給への不安だ。石炭は最も汚染度の高い化石燃料でありながら、地政学的な緊張が高まるたびに、世界はより汚れたエネルギーに回帰する。ここでも、需要を生み出す場所と、その燃焼が地球規模で及ぼす影響を受ける場所は一致しない。

ここで見過ごされがちなのは、これらの出来事がすべて「コストの発生地」と「コストの決定地」がずれているという一点で結びついていることだ。スヴァールバルの永久凍土が溶けて温室効果ガスを放出するのは、そこで石炭を燃やしたからではない。ジロンドの森が燃えたのも、地域の怠慢のせいではない。セリーヌ・ディオンのコンサートに足を運ぶ一人ひとりの選択も、それ自体は小さい。しかし、観光であれ、娯楽であれ、エネルギー市場であれ、世界のどこかで積み重なった経済活動の総量が、特定の土地の気温を押し上げ、特定の森を乾燥させ、特定の永久凍土を溶かしている。そして請求書は、たいてい、その土地の自治体や住民のもとに届く。ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏が国と欧州に追加の資金と権限を求めたのは、まさにこの構造――地域だけでは背負いきれない、という現実の表れだろう。

フランスでは、熱波や森林火災が単なる自然現象ではなく、農業、林業、観光、保険といった経済の問題として語られる傾向が強い。ジロンドの支援計画が木材産業の保管インフラや観光プロモーションまで含んでいるのは、被害を環境問題としてではなく、地域経済の存続問題として扱っているからだろう。日本でも豪雨や猛暑への対応、災害復旧の経験は蓄積されてきたが、遠く離れた場所でのエネルギー消費や旅行・娯楽の選択が、自国のどこかの地域の負担にどうつながっているかという視点は、一般にはまだそれほど強く意識されていないかもしれない。日本もまた輸入エネルギーへの依存度が高いとされ、猛暑や豪雨への適応コストが家計や自治体に及ぶ場面は少なくないはずだ。だとすれば、「誰が消費し、誰が代償を払うのか」という問いは、フランス特有の話ではなく、私たちの生活にもそのまま当てはまる。

この先、被災地域だけが復旧費用を背負う構図が続けば、産業や人口が特定の地域から流出し、公共サービスが縮小し、地域間の格差はさらに広がっていくだろう。その一方で、消費地や国家、企業、国際機関が予防・復旧・脱炭素のコストをどう分担するかという議論は、まだ制度として十分に固まっていない。ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏が国に求めた「新たな地方分権」という言葉には、地域だけに任せないでほしい、という切実な訴えが滲んでいるように読める。

氷河ツアーのチケットを買うとき、コンサートのために遠方へ旅行するとき、そのお金と時間の先に、どこかの土地の永久凍土や、どこかの森の乾いた下草があるとしたら――あなたはその負担を、被災地の努力だけに委ねてよいと思うだろうか。それとも、私たちの日常の消費そのものが分担すべき責任の一部だと考えるだろうか。

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