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1,587人という数字が突きつける問い ― 被害者を守ることと、証拠で裁くことは両立するのか
社会

1,587人という数字が突きつける問い ― 被害者を守ることと、証拠で裁くことは両立するのか

2026/8/19

8月18日、フランスのジェラルド・ダルマナン司法相はX(旧Twitter)に一つの数字を投稿した。1,587人。6月初旬以降、未成年者への性的暴力に関する事件で収監された人数だという。前回発表の8月4日からわずか2週間で163人増え、司法捜査に至った件数も約100件増の2,100件に達した。これは単なる治安統計ではない。この数字の背後には、11歳の少女の死という一つの悲劇と、彼女を救えなかったかもしれない司法の仕組みそのものへの疑いがある。

発端はリアナ事件だった。6月初旬、ジェール県で11歳の女子中学生リアナが遺体で発見された。子どもの強姦と殺人の容疑で予審の対象となったジェローム・バレラ被告には、実はすでに複数の告訴が寄せられていた。しかし、それらはいずれも不起訴となっていたのだ。この事実が明らかになった直後、ダルマナン司法相は全国の検察当局に対し、リアナ事件を受けて提出されたすべての告訴を再検討するよう要請した。つまり、1,587人という数字は、単に新たな犯罪が増えたことを意味するのではなく、過去に「なかったこと」にされていた告発が、あらためて掘り起こされた結果でもある。これは事実として明記されている範囲での話だが、ここから読み取れるのは、被害申告が受理された後の判断プロセスそのものが問われているという構図だろう。

同じ時期にフランスで報じられた別の二つの事件が、この問いをさらに具体的な形で浮かび上がらせる。

ひとつは、パリで81歳の司祭が予審開始となった件だ。1997年から2015年にかけて、被害者が12歳だった時期からの複数回の性的暴行が容疑とされている。捜査のきっかけは2024年6月に提出された告訴だった。だが同時に、別の3人が訴えた1979年から1986年の「類似の事実」については、時効が成立しているという理由で予審開始の対象外となった。被害の存在を訴える人がいても、時間という制度上の壁が立ちはだかる。これは冷たい制度の論理と映るかもしれないが、同時に、証拠が薄れた過去の出来事をどこまで裁けるのかという、制度が抱える根本的な緊張でもある。

もうひとつは、2023年11月にドローム県クレポルで起きたトマ・ペロットさん殺害事件だ。予審判事は7月23日、起訴対象となった14人全員について「人種差別」の加重情状を認定した。だが、ヴァランス検察局はこれに異議を唱えている。人種差別的発言を証言する人は少数で、内容にばらつきがあり、発言者を特定できる証人もいないという理由からだ。被害者側の弁護士は「裁判前に決定的な証拠を求めることになる」と反論し、予審段階でどこまで確実性を求めるべきかという論点が、加重情状の認定という具体的な形をとって争われている。ここで起きているのは、被害者や社会が求める「認定」と、法が要求する「証明」との間のずれだ。どちらも譲れない正義の一部でありながら、同時には満たせないことがある。

フランスでこの一連の動きがどう受け止められているかを見ると、司法相自身が主導して過去の不起訴案件を掘り返すという、かなり異例の対応が取られている点が目を引く。これは、被害者保護の失敗を政治が公に認め、制度全体の検証を促すという姿勢の表れと解釈できる。一方でクレポル事件のように、検察と被害者側の弁護士が加重情状の認定基準をめぐって正面から対立する場面もあり、被害者保護への社会的圧力が高まるほど、証拠基準を厳格に守ろうとする側との摩擦も強まっているように見える。

日本ではどうだろうか。ここで注意しなければならないのは、上記のフランスの事件と直接比較できる具体的な統計や制度改正の事例は、今回の関連ニュースには含まれていないということだ。ただ、日本でも一般に、被害の申告がどのように受理されるか、申告後に二次被害を防げるか、そして立証の負担が被害者側にどれだけ重くのしかかるかが、性犯罪をめぐる議論でしばしば課題として指摘されることが多い。フランスのケースが示しているのは、被害を届けたことと、その届けが実際に捜査・訴追に結びつくことの間には、制度的な断層が生じうるということだ。この断層は、法制度や文化的背景が異なっても、構造としては共有されうる問題なのかもしれない。

視点をアメリカに移すと、証拠と責任の関係はまったく別の角度から問われている。マサチューセッツ州で審理中のリンジー・クランシー被告の裁判は、2023年1月に3人の子どもを殺害した罪に問われた36歳の元看護師のケースだ。弁護側は、被告が産後精神病や未診断の双極性障害によって刑事責任能力を失っていたと主張し、検察側は「意図的かつ綿密な」犯行だったと反論している。ここで争われているのは、加害者側の精神状態が刑事責任にどう影響するかという、フランスの二事件とは逆方向の論点だ。フランス国民健康保険によれば産褥精神病は出産した女性1,000人あたり1〜2人に発症するとされ、まれではあるが実在する疾患だという。陪審は、幻聴や被害妄想を示す近親者の証言や本人の日記の記述といった、心理的・医学的な証拠を通して、意図と病理の境界を判断することになる。検察官が「この裁判を女性のメンタルヘルスをめぐる公開討論とみなさないでほしい」と裁判官に求めた場面は象徴的だ。社会的な意味づけと、個別の刑事責任の認定は、本来別の作業であるべきだという緊張がそこにある。

こうして並べてみると、フランスの三事件とアメリカの一事件は、実は同じ構造的な問いの異なる断面を映し出している。被害者の訴えをどこまで真剣に受け止めるか、加重情状や責任能力をどのような証拠で認定するか、そして時効や証言の不確かさという制度的な限界をどう扱うか。厳罰化や収監者数の増加だけでは、通報のしやすさや捜査の質そのものは改善しない。むしろ、被害者の安全と尊厳を守りながら、証拠基準と反論の機会を透明に運用できるかどうかが、司法への信頼を左右するのだろう。

フランスでは今後、ヴァランスの予審判事がクレポル事件の加重情状をどう判断するか、そして司法相が命じた告訴の再検討がどこまで過去の不起訴を洗い直すかが注目される。アメリカではクランシー被告の裁判が6〜8週間続く見通しで、陪審が意図と病理のどちらに軍配を上げるかが待たれている。どちらの結末も、被害者保護と証拠主義という二つの原則をどう同時に強くできるかという、同じ問いへの一つの答えになるはずだ。

あなたの社会では、被害を訴えた人の声は、どの段階で、どれだけの重みを持って受け止められているだろうか。そして、その重みは、証拠にもとづく冷静な判断を妨げずに保たれているだろうか。

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