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ベールとスペーススーツ、教室の空席が問いかける「標準」の正体
社会

ベールとスペーススーツ、教室の空席が問いかける「標準」の正体

2026/9/2

パリ近郊エソンヌ県のショッピングセンター、レ・ジュリス。買い物袋を足元に置いた20歳のカディは、肩からずり落ちたベールの端をつまみながら言った。「誰も傷つけていないし、ほかの布地と同じ一枚の布にすぎません」。彼女はTikTokで、国民連合(RN)が公共の場でのベール着用を国民投票にかけるつもりだと知ったばかりだった。マリーヌ・ルペン氏は2027年の大統領選で勝利した場合、「イスラム主義的イデオロギーとの闘い」に関する法律を国民に問うと約束しており、そこには公共の場でベールを着用した女性への罰金や制裁が含まれている。

同じ通路で、家族の母マリカは怒りをあらわにした。「フランスで生まれ、フランス人で、ベールを着けて35年になります。罰金なんて払いません」。少し先を歩いていたプロテスタント系修道会のアンヌ修道女は、長い白いベールを背中に垂らしていた。彼女自身も他人事ではないと感じている。「イスラム教徒の女性が対象になるなら、キリスト教徒やユダヤ教徒が対象にならない理由はありません」。下院議員シルヴァン・マイヤールも同じ疑問を政治の場で突いた。イスラム主義と戦う必要は認めつつ、RNの案を「grotesque(滑稽で不適切)」と呼び、単純な規制がムスリム市民全体へのスティグマを助長すると批判している。

ここで起きているのは、単に「布をどう扱うか」という話ではない。誰かが着ている服が「異物」として国民投票の対象になり、別の誰かが着ている似た形の布は最初から議論の外にある。アンヌ修道女の指摘が鋭いのは、まさにその点だ。世俗主義(ライシテ)は本来、すべての信仰を等しく公共空間の外に置く原理のはずなのに、実際には可視化された特定の信仰だけが「公共秩序の問題」として名指しされやすい。誰を基準にして「中立」を定義するかによって、同じ規則が誰かには自由の保障になり、別の誰かには自由の侵害になる。

この構造は、宗教という分かりやすい対立軸を離れても、あちこちに顔を出す。同じ新学期、16歳のエンゾーはIME(医療・教育機関)に週1日しか通えていない。重度の自閉症があり、話すことも危険を認識することもできない彼は、受け入れ枠と人員と資金の不足のために2年間まったく就学できなかった。母マガリさんは仕事を辞めて息子を介助し続けてきた。「本来なら、フランスのすべての子どもたちと同じように、月曜から金曜まで通うべきなのに」と彼女は言う。支援団体Unapeiの調査では、支援を受けている障害児の76%が週12時間未満しか通学していないという。学校という制度は「標準的な子ども」を想定して設計されており、そこから外れる身体や認知のあり方には、そもそも十分な席が用意されていない。マガリさんの「機会の平等について語られていますが、そんなものは存在しません」という言葉は、ヴェールを咎められる女性たちの違和感と、驚くほど近い場所から発せられている。

制度そのものが傷の原因になっているケースもある。フランスでは9月1日、教会内の性的暴力被害者を支援する新制度「Renaître」が、これまでのInirr(国家独立認定・補償機関)に代わって導入された。Inirrは2021年の設置から5年間で約2,000人の被害者を支援してきたが、期間限定の機関だった。Renaîtreは恒久化される一方、聴取窓口が教区に依存する点が変わる。前総裁マリー・デラン・ド・ヴォークレスンが強調したのは、「欠陥の原因となった機関」が加害の場でもあった以上、裁く側と当事者側を同一にはできないという原則だ。被害者を制度の外に置いたままにするのではなく、加害を生んだ組織の内側にどう独立性を組み込むか――これもまた、「標準」に守られてこなかった人々を制度がどう受け止め直すかという問いの一形態である。

一見、まったく畑違いに見えるのが、国際宇宙ステーション(ISS)での出来事だ。フランス人宇宙飛行士ソフィー・アドノーは9月1日、米国人ジェシカ・メアとともに3回目の船外活動に臨み、今回は自らが指揮官(EV1)を務めた。ISSで行われた284回の船外活動のうち、女性2人だけのペアによるものはこれが6回目にすぎない。読者コメントの一つが的確に言い当てていた。「女性宇宙飛行士の体格に合った宇宙服を用意する時期なのではないか」。実際、NASAの技術者はかつて、女性向けの次世代宇宙服には「胸部を大きくし、肩幅を狭くし、腰回りを広くする必要がある」と説明していた。つまり宇宙服という、人類最先端の技術の結晶さえも、長らく特定の体格を「標準」として設計されてきたということだ。

ヴェール、教室の席、被害者支援の窓口、宇宙服のサイズ――この四つはニュースのジャンルとしては何の関係もない。しかし並べてみると、共通する一本の線が見えてくる。制度は誰かの身体・信仰・家族・被害体験を「例外」として扱う代わりに、最初から自分の内側に含めておくことができたはずだ、という線だ。フランスでライシテが争点化するとき、争われているのは実は「中立」という言葉が誰の視点から書かれてきたかである。日本では宗教的な服装をめぐる公的規制の対立は、フランスほど鋭くは表面化しないと一般に言われる。しかし障害のある子どもの教育や、感染症・被害体験への偏見をめぐっては、受け皿の不足という同じ形の問題が指摘されることが多い。米国では宗教表現の自由は強く保護される一方で、支援へのアクセスは地域や保険、雇用の状況に左右されやすいとされる。つまり「誰を排除しないか」を憲法や理念のレベルで解決したように見える社会でも、実際に支援が届くかどうかという実務のレベルでは、別の壁が残り続けるということだ。

人口構成と働き方がこれまでよりも多様になっていく中で、教育、医療、被害者支援、そして科学技術の設計を、これまでと同じ多数派の身体・家族・信念だけに合わせ続けることが、いつまで社会的に許容されるだろうか。エンゾーに用意される椅子の数、被害者が声を上げるための窓口の独立性、そしてスペーススーツの肩幅――これらはどれも、誰かの「例外」を制度の中心に置き直せるかどうかという、同じ一つの意思決定の結果にすぎない。

あなたの身のまわりにある「みんなに同じ規則」は、本当にみんなに同じ参加を可能にしているだろうか。

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