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発言を許すことと、舞台を与えることは同じか――消えた「自由発言」が問うもの
社会

発言を許すことと、舞台を与えることは同じか――消えた「自由発言」が問うもの

2026/9/12

水曜日の夜、フランス5の文学番組「ラ・グランド・リブレリー」の最後に、いつもの「自由発言」のコーナーがあった。この日、その数分間を任されたのは女優で作家のアデル・エネルだった。カメラを正面から見つめ、彼女は性差別的・性的な暴力について語り始め、やがて「国を絡め取っているテレビの沈黙」を批判し、最後にこう言い切った。「イスラエル国はパレスチナでジェノサイドを行っており、フランスは共犯だ」。

この発言そのものよりも、その後に起きたことのほうが、実は多くを物語っている。放送から2日後の金曜日、フランス・テレビジョンはこの回の見逃し配信を削除した。理由として挙げたのは、複数の申し立てが寄せられたこと、そして視聴覚規制機関アルコムが内容を評価できるようにするための「暫定的な措置」だということだった。同グループは「検閲ではない」と明言している。

しかし、この説明は多くの人を納得させなかった。社会党第一書記のオリビエ・フォールはX上で「自由発言の原則とは、発言の機会を与えることだ。禁止された見解があるのか。犯罪に当たる発言があったのか。説明がないまま削除するのは恥ずべきことだ」と書いた。エネル本人もインスタグラムで、削除という行為自体が「誰もが知っているものの、決して口にしてはならない言葉や現実が存在する」という自分の主張を「完璧に証明した」と切り返した。

ここで立ち止まって考えたいのは、「発言を放送で許すこと」と「その発言に公共放送という舞台を与え続けること」は、本当に同じ行為なのかという点だ。フランス・テレビジョンの説明を素直に読めば、彼らが問題にしたのは発言の内容そのものの是非というより、それを「見逃し配信」という形で反復・拡散し続けることの是非だったように見える。生放送で一度流れた言葉と、アーカイブとしていつでも呼び出せる言葉は、公共性という観点では違う重みを持つ、という判断がそこにはあったのかもしれない。もっとも、それが検閲との違いを説得的に説明できているかどうかは、また別の問題として残る。

この構図は、同じ週に報じられた別のニュースとも静かに響き合っている。スウェーデン心理防衛庁の長官マグヌス・ヨート氏は、ロシアのボットネットワークが2027年のフランス大統領選や今後のドイツの州議会選挙を標的にする恐れがあると警告した。フランス政府はすでに、ガブリエル・アタル氏やラファエル・グリュックスマン氏を含む複数の大統領選候補が、ロシアの偽情報キャンペーンの対象になったと発表している。ここで問われているのも、「誰かが何かを言う自由」ではなく、「自動化された偽アカウント網が、意図的に特定の言説を増幅し続けるプラットフォームの構造」だ。発言そのものを禁じるのではなく、発言を不自然に増幅する仕組みにどう向き合うか――アデル・エネルの見逃し配信をめぐる論争と、ロシアのボット軍団をめぐる警告は、驚くほど似た問いを別の角度から投げかけている。

もう一つ、視点を変えると見えてくるものがある。フランス代表主将のキリアン・エムバペは、自身を独裁者になぞらえる風刺画について、初めて公にこう語った。「軽い気持ちで作られているが、政治的・人間的な意識の欠如を示すこともある」。彼はこの表現を禁じてほしいとは言っていない。ただ、冗談として流通する言葉が、歴史上の犠牲の記憶を軽く扱ってしまうことへの違和感を語っただけだ。表現を止めるかどうかの二択ではなく、その表現が公共の場でどう受け止められ、何を軽んじてしまうかという「意識」の問題として語られている点が興味深い。

こうして並べてみると、今のフランスで交わされている表現の自由をめぐる議論は、「言ってよいか悪いか」という単純な線引きではなく、「誰が、どんな舞台で、どれだけの増幅力を持って発言を届けるか」という、もう一段階手前の問いに移っていることが分かる。公共放送であるフランス・テレビジョンには、規制機関アルコムという第三者機関の目が制度として組み込まれている。だからこそ「暫定措置」という言葉が使え、同時にそれが検閲だと批判される余地も生まれる。制度が存在すること自体が、この綱引きを可視化しているとも言えるだろう。

日本の状況に目を向けると、名誉毀損や業務妨害といった個別の法的トラブルへの対応の枠組みはあるものの、ある発言を公共放送がどう位置づけ、誰の判断でどう扱うかという議論が、フランスのように制度的な言葉で語られる場面は多くないように見える。これは制度が優れているか劣っているかという話ではなく、「公共性」という概念そのものの置かれ方が違う、という文化的な差異として受け止めるべきものだろう。

一方、米国について今回のニュースから確認できる事実はないが、一般に憲法上の言論保護の強さが、政府やプラットフォームによる規制への警戒感をより強めると言われることが多い。フランスのように公共放送の見逃し配信を規制機関の判断待ちで一時停止するという発想自体が、米国的な文脈ではより強い反発を招く可能性がある、とは想像できる。ただしこれはあくまで一般的な傾向としての推測であり、断定はできない。

ベネチア国際映画祭で25分間のスタンディングオベーションを受けたドキュメンタリー『NAZA』の存在も、この文脈に置くと違って見えてくる。イスラエルの情報機関関係者や軍関係者を含む24人の証言に加え、街路や建物、日常風景の映像で構成されたこの作品は、イスラエル軍から「断固として拒否する」という反応を引き出した。ここで起きているのは削除ではなく、映画祭という舞台が長い拍手という形で発言に公共性を与えたという出来事だ。同じ月に、ある発言には舞台が与えられ、ある発言からは舞台が奪われた。この違いを分けているものが何なのか、今の時点では明確な答えはない。

アルコムが今後どのような評価を下すのか、そして2027年の大統領選に向けてロシアの偽情報対策とプラットフォームの責任がどう制度化されていくのか、この二つの動きは今後も交差しながら進んでいくはずだ。削除や反論、編集判断の理由を説明できなければ、被害を防ぐための措置そのものが「不信」と「検閲」という言葉に回収されてしまう。それはフランスに限った話ではないだろう。

発言を許すことと、その発言に公的な舞台を与え続けることは、同じことなのだろうか。あなたなら、その境界線をどこに引くだろうか。

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