
ポケモンカードの行列と、殺害予告の脅迫状──「家族」という言葉がきしむ場所
2026/9/21
ディジョンのカードゲーム専門店「ジョカード」の前には、通常なら開店の10時を待つはずのところ、8時30分から人が集まっていたと報じられている。目当てはポケモンカード発売30周年の記念ボックスだ。開店時にはすでに20人あまりが列をなしていたという。店主のステファン・レニエ=デュボワは「これほどの反響は長らくなかった」と振り返る。19歳の女性グウェン・マルテンスは、35ユーロのボックスを開けながら「子どもの頃、昔のカードは全部妹にあげた」と笑った。彼女にとってこれは、単なる買い物ではなく、世代をつなぐ小さな儀式だったのだろう。
この光景を、同じ週にフランスから発信された別のニュース群と並べてみる。すると、まったく違う場所で「家族」という言葉が、まったく違う意味で揺れていることが見えてくる。
ネパールを舞台にした映画『霧の中の象たち』は、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で審査員賞を受賞した作品だ。主人公ピラティは、トランスジェンダーの女性で構成されるキンナル・コミュニティーの「家庭の母」として、3人の養女を育てている。監督のアビナシュ・ビクラム・シャーは、この作品の核心を「血縁ではなく、必要性、気遣い、分かち合う愛情によって結ばれた親族関係」だと語っている。ピラティたちは村人から排除されもすれば、結婚式に招かれて祝福を歌う存在として求められもする。排除と依存という一見矛盾する関係のなかで、彼女たちは自分たちの手で家族を組み立て直している。血のつながりではなく、日々の世話の積み重ねが、そこでは家族の定義になっている。
同じ週、フランス国内では正反対の方向から「家族」がニュースになっていた。新学期が始まって3週間足らずの間に、保護者4人が教員や校長に殺害を予告した。トゥールーズ近郊では、息子が処分を受けたことに怒った父親が女性教員に「首を切る」と告げた。ボルドー郊外の中学校では、口論する生徒たちを引き離そうとした校長と監督員に父親が暴行を加え、殺害を予告した。国民教育相エドゥアール・ジェフレは「どのような暴力も放置しない」と表明したが、統計はこれが例外的な事件ではないことを示している。小学校で報告される「重大事案」の30%には家族が関与しており、この割合は数年間ほぼ変わっていない。校長への聞き取り調査では、保護者との意見の食い違いを経験したと答えた校長が2025年には約8割に達し、2013年の6割から増えている。侮辱を受けた経験も23%から51%へと増加した。
ここで見過ごされがちなのは、この暴力の矢印が向いている先だ。保護者は自分の子どものために学校と対立しているのだが、その対立の負担を最終的に引き受けているのは、家庭の外にいる教員という第三者である。教育職員支援団体の会長ジャン=ルイ・ランデールは「家庭と直接接する同僚たちが、もう安全を感じて職場に行けなくなっている」と語る。彼は新型コロナ危機を転換点とみている。オンライン授業を通じて家庭と教室の境界が曖昧になり、その混乱が収まったあとも「他者との関係を築く文化」が失われたままだ、という見立てだ。つまりここでは、家庭というものが「自分たちだけで完結する私的な領域」だという前提が、学校という公的な場に持ち込まれ、そこで摩擦を起こしている。
もう一つ、家族の輪郭を問う作品がある。ジャンヌ・エリ監督の映画『Garance』は、アルコール依存症の若い女優ガランスを描く。彼女は不安定な仕事と恋愛のあいだで自分を壊しながら生きているが、そこに現れるのがサラ・ジロー演じるポーリーヌだ。血縁でも婚姻でもないこの関係が、ガランスの8年間の物語のなかで、親密さや支えの源泉になっていく。監督が同時に描くのは、芸能分野の不安定な雇用、セクシュアリティの目覚め、治癒不能の病を抱える人への寄り添いだ。テーマが多すぎるという批評もあるが、裏を返せば、これらはどれも「誰が誰をケアするのか」という一つの問いの、異なる断面にすぎないとも言える。
アイルランド西部の小さな村リスドゥーンバーナで毎年9月に開かれる「マッチメイキング・フェスティバル」も、この文脈で読むと違った意味を帯びてくる。人口1,200人の村に約4万人が集まり、出会い系アプリではなく、通りやパブでの偶然の出会いに賭ける。シカゴから来た34歳のマイケルは「誰かに近づいて『こんにちは、元気?』と声をかけるのが難しくなった」と話す。83歳の仲人ウィリー・デイリーは、アプリについて「選択肢が多すぎて、どうやって決断できるのか」と疑問を投げる。ここにあるのは、家族やパートナーシップの出発点を、個人が単独でアルゴリズムと向き合って選ぶのではなく、共同体の目や偶然の交わりに委ねたいという願望だ。
こうして並べてみると、ネパールの映画、フランスの学校、アイルランドの祭り、そしてポケモンカードの行列は、まったく違う場所で同じ緊張を映し出している。家族とは、血縁と婚姻によって最初から確定している単位なのか。それとも、実際に世話をし、世話をされるという行為の積み重ねによって、そのたびに作り直されるものなのか。キンナル・コミュニティーは後者を選び、そのことで社会の周縁に置かれながらも祝福を担う存在になった。フランスの学校現場は、家庭が私的な城として閉じたまま公的な場に暴力を持ち込むとき、教員という第三者がその代償を払わされる構造を露わにしている。ディジョンの店先に並んだ人々は、世代を超えた小さな儀式を通じて、血縁が育てる関係性の心地よさを確認していた。
日本では、家族内でのケアに頼る割合が今も高いと一般に言われる。介護や子育ての負担を家庭の内側で引き受けようとする規範が強く、制度的な支援を求めることに心理的な抵抗を感じる人が少なくないとされる。フランスの学校が家庭の機能不全のツケを公的な場で払わされているのだとすれば、日本ではむしろ、家庭が担いきれない負担を外に出しにくいという、逆方向のひずみが起きているのかもしれない。どちらも、家族を「私的で自己完結的な単位」として扱う前提が生む摩擦だと言えるだろう。
フランス政府は、学校運営を重大に妨げる保護者の子どもを転校させる政令を導入した。これは対症療法にすぎないが、家庭と学校という二つの領域の境界線を、国家が公的に引き直そうとする試みでもある。今後、選んだ家族やケアの実践を制度がどこまで承認していくのか、そして学校のような公的な場が家庭の負担をどこまで肩代わりし続けるのかは、フランスに限らず問われていくはずだ。
あなたにとって家族とは、血のつながりによって最初から与えられているものだろうか。それとも、誰かの世話を続けるという行為そのものが、あとから家族という名前を与えるものだろうか。
出典
- https://www.franceinfo.fr/culture/cinema/sorties-de-films/les-elephants-dans-la-brume-un-film-surprenant-et-puissant-sur-une-communaute-de-femmes-transgenres-du-nepal_8166611.html#xtor=RSS-3-[lestitres]
- https://www.franceinfo.fr/culture/cinema/sorties-de-films/adele-exarchopoulos-se-noie-dans-l-alcool-dans-garance-le-film-bouleversant-de-jeanne-herry_8193356.html#xtor=RSS-3-[lestitres]
- https://www.franceinfo.fr/monde/europe/en-irlande-le-plus-grand-festival-de-celibataires-d-europe-mise-encore-sur-l-amour-en-dehors-des-applis_8201501.html#xtor=RSS-3-[lestitres]
- https://france3-regions.franceinfo.fr/bourgogne-franche-comte/cote-d-or/dijon/on-a-vendu-tout-le-stock-en-30-minutes-les-coffrets-anniversaire-de-pokemon-s-arrachent-en-boutique-3419453.html#xtor=RSS-3-[lestitres]
- https://www.franceinfo.fr/societe/education/apres-quatre-menaces-de-mort-depuis-la-rentree-comment-expliquer-la-hausse-des-violences-des-parents-d-eleves-contre-les-enseignants-et-personnels-educatifs_8197022.html#xtor=RSS-3-[lestitres]