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「永遠に知れないかもしれない」——裁判が真実を保証できないとき、司法は遺族に何を約束すべきか
editorial

「永遠に知れないかもしれない」——裁判が真実を保証できないとき、司法は遺族に何を約束すべきか

2026/7/22

大腿骨が2本。それだけだった。

2020年12月に忽然と姿を消したフランスの看護師デルフィーヌ・オサジュエルさんの遺族が、5年半の沈黙の末に手にしたのは、そのわずかな骨だけだった。franceinfo が報じたところによると、夫のセドリック・ジュビラール被告が弁護士を通じて犯行を認め、その供述に基づいてタルヌ県マイヤックの休耕地が発掘されたが、見つかったのは主に下半身の骨片のみで、遺体の大部分は確認されていない。そして法医学者カリーヌ・ダバディ氏が同メディアに語ったことは、遺族にとってさらなる打撃だった。「これらの検体だけで死因を特定することはできない」——専門家はそう述べている。

遺族側の弁護士ムラド・バティク氏はfranceinfoで、捜索が始まったときの「安堵」が最終的に「大きな怒り」に変わったと表現した。「デルフィーヌに墓を用意してあげられると期待していた」のに、「大腿骨2本で納得しなければならない」。その言葉には、司法制度への根本的な問いが圧縮されている。裁判とは何を解決するのか、そして何を解決することを約束してはならないのか、という問いだ。

供述があっても「真実」には届かない

ジュビラール被告の事件が特異なのは、その構造にある。5年半にわたって否認し続けた男が、突如として告白した。franceinfo の報道によれば、被告は弁護士宛ての手紙で「夫婦げんかの末に妻を殺した」と認めた。「子どもたちに動かない母親の遺体を見せたくなかったから」遺体を移動させた、という弁護人側の説明も伝えられている。

供述は得られた。場所も示された。骨も発掘された。それでも、なぜ死んだのか、どのように死んだのか、という問いへの答えは得られないかもしれない——そこに、この事件の核心的な問題がある。franceinfo が伝えた法医学者の見解は明確だ。骨は5年半、酸性の農地環境にさらされ、DNAの抽出自体が困難を極めた。骨折の痕跡があったとしても「下肢だけではそれが死因かどうかを証明できない」と専門家は述べている。

控訴審は9月21日に開廷が予定されている。バティク弁護士はfranceinfoで「司法機関がセドリック・ジュビラールよりも強い存在であってほしい」と訴えた。この言葉は、被害者遺族が抱く根本的な恐怖——手続きのペースが加害者側によってコントロールされているという感覚——を端的に表している。

フランスの司法が「真相」に向き合う方法

フランスの刑事司法には予審判事という制度があり、検察とは独立した立場で捜査を指揮し、証拠を集め、専門家鑑定を命じ、関係者を尋問する権限を持つ。この制度は、「真相究明」への強い志向をシステムとして内包している。被疑者が長期にわたって否認を続けた場合でも、予審が継続されることで証拠の積み上げが行われる。ジュビラール事件でも、5年以上にわたる捜査を経てようやく被告が口を割ったのは、こうした構造が機能した結果だとも言える。

しかしこの事件が示しているのは、その「真相志向」の限界だ。予審が機能し、被告が供述し、DNA鑑定で骨の身元が確認されても、「どのように死んだか」という問いには法科学が追いつかない。ヴァール県で行方不明になった軍人2人の事件でも同様の状況がある。franceinfo によれば、ブーシュ=デュ=ローヌ県で発見された骨について、DNA鑑定などの分析が「段階を踏んで」進められており、7月末までに身元照合の結果が判明する見通しだとトゥーロン検察が説明している。この事件でも、遺骨の発見から確定的な事実の解明まで、どれほどの距離があるかは予断を許さない。

科学技術の進歩が証拠の解明を助ける一方で、時間の経過と自然環境の破壊力は科学の限界を突いてくる。これは、一つの事件の特殊事情ではなく、証拠が残されない・あるいは残せない状況で起きる事件全般に通底する問題だ。

裁判が「真実」を保証しない制度設計という現実

この問題を考えるとき、国によって司法が何を「約束」しているかが大きく異なることに気づく。

フランスを含む大陸法系の国では一般に、真実の発見が手続きの正当性の中核に置かれる傾向があると言われる。予審制度や職権的な証拠収集は、その表れだ。一方、アメリカの陪審制や司法取引の仕組みは、真相の解明よりも「手続き的な決着」を優先させる場合があるとされることが多い。陪審が評決を下した時点で、それが「社会的な真実」として機能するという発想だ。どちらが優れているかという話ではなく、社会がどこに裁判の意味を置いているかの違いである。

日本の文脈で考えると、自白への過度な依存が誤判を生んできた歴史は無視できない。科学鑑定の誤りや、確定判決後に再審を求めなければならなかった事件の積み重ねが示すのは、「有罪判決=真実の確定」という等式が危うい前提に立っていることだ。ジュビラール事件で際立つのは、むしろ逆のパターンだ。被告は告白し、場所を示し、骨が発見された。それでも「どのように死んだか」は証明できないかもしれない。有罪の心証は固まっているが、事実の全貌は永遠に空白のままという状況が生まれている。

ここで見過ごされがちなのは、この「知れないかもしれない」という状況が、被告の権利と遺族の尊厳の両方にとって問題を生むという点だ。被告側にとっては、「意図せず死なせた」という主張の真偽が科学的に検証されないまま量刑が決まるリスクがある。遺族にとっては、何が起きたのかを知る権利が永遠に宙づりになる。バティク弁護士がfranceinfoで語った「終わりのない拷問」という言葉は、この宙づり状態そのものを指している。

証拠の限界を、制度はどこまで正直に語れるか

DNA技術が飛躍的に進歩しても、時間と環境が証拠を破壊する力は変わらない。重要なのは、そのことを司法制度がどれだけ正直に語れるか、ではないだろうか。

捜査に説明責任を持たせ、証拠の保全を義務化し、遺族への支援を有罪判決の確定とは独立したプロセスとして整えることが必要だという議論は、欧州人権法の視点からも語られてきた。被害者には「実効的な捜査への権利」があり、それは単に犯人が逮捕されることではなく、捜査が誠実かつ徹底的に行われることを要求する——という考え方だ。有罪判決が出ても、遺族が「どのように死んだか」を知れなければ、その権利は十分に保障されたとは言えない。

ジュビラール事件が問いかけているのは、犯人を特定し処罰することと、真実に近づくことが、同一のプロセスではないという現実だ。被告は「感情に押し流された」と言い、弁護士は「意図せず死なせた」と説明した。遺族はその説明を「嘘と操作」だと感じている。どちらの感触も、法廷の証拠によっては決着がつかないかもしれない。

フランスの法廷が9月に控訴審を開くとしても、法医学が死因を特定できないまま審理が進む可能性は高い。そのとき裁判官は、どこまで確かめられたことと確かめられていないことを切り分けて判断を下せるか。そして社会は、「完全な真実がなくても正義は実現できる」という前提を受け入れられるか。

答えの出ない喪失に対して、裁判が約束できるのは「手続きの誠実さ」だけかもしれない。それは遺族にとって十分だろうか。そしてもし十分でないとすれば、私たちは裁判に何を求めすぎているのだろうか。

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