
「科学が決める」の前に、誰が問いを決めるのか――フランスの農薬論争が映す専門知と民主主義
2026/7/22
ヘーゼルナッツ農家を救うのか。蜂を守るのか。
フランスの議会でこの夏、農薬一種の使用許可をめぐる論争が起きた。
一見すると、地域の農業政策に見える話だ。しかしそこには、日本にとっても他人事ではない問いがある。専門家の判断に委ねるとは、いったい何を委ねることなのか。科学と政治は、どこで分かれ、どこで交わるのだろう。
議会を揺るがした二つの農薬
今年7月、フランス国民議会は農業緊急法案を賛成296票、反対224票で可決したとフランスインフォが報じている。
法案には、水資源の管理強化や畜産施設の整備など、農家を支援する措置が含まれていた。だが最も強い反発を呼んだのは、フランスで使用禁止となっているアセタミプリドとフルピラジフロンという二種類の農薬について、例外的な再導入への道を開く条文だった。
アセタミプリドはネオニコチノイド系農薬の一種である。ミツバチなど、授粉を担う昆虫への悪影響が指摘されてきた。フランスはかつて、EU諸国に先駆けてこの農薬を禁止した。今回の法案は、その扉を再び開く動きとして受け止められた。
ここで注目されたのが、政府の説明だった。
農相のアニー・ジュヌヴァール氏はフランス・アンテールのインタビューで、「法案はアセタミプリドを再導入するものではない。決めるのは科学であり、政治が裁定するのではない」と述べたと、フランスインフォは伝えている。
法案は農薬を直接解禁するのではない。Anses(国家食品環境労働衛生安全庁)が例外使用を認めるかどうかを判断する仕組みを定めている。政治家ではなく専門機関が決める。そう聞けば、合理的で公平な手続きに思える。
ただ、「科学に委ねる」という言葉は、すべての問いを解いてくれるわけではない。
科学が答えられる問い、答えられない問い
Ansesは、農薬がどの程度のリスクを持つかを評価できる。だが、農薬を使えなければ農家がどれほど困るのか。その損失と、生態系への影響をどう比べるのか。そこには、測定や実験だけでは決められない選択がある。
何を優先して守るのか。誰の損失を、どこまで受け入れるのか。
こうした問いは、科学的な知見を必要とする。しかし同時に、社会が引き受ける価値判断でもある。独立した専門機関に判断を任せることと、その判断をめぐる政治的な責任が消えることは、同じではないだろう。
政府関係者は、「科学者に圧力がかからない、十分な条件で科学的な作業を行えるようにするため」と説明したとフランスインフォは報じている。専門知を政治的圧力から守ろうとする姿勢とも読める。一方で、対立の大きい判断を先送りし、政治的な着地点を探る時間をつくる措置にも見える。
共和党のジュリアン・ディーヴ議員は採決後、「議員たちから、問題は科学に委ねるべきだという話を聞いた。われわれは今まさにそれを行った」と述べたとフランスインフォは伝えている。
この言葉には、議会が責任を手放したというより、責任の置き場所を変えた姿が映る。誰が決めるのかという問題は、専門機関に委ねた後も消えないのかもしれない。
予防接種では、「どう実施するか」が問われた
農薬論争と同じ週、フランスでは別の専門知をめぐる議論も起きていた。
フランス高等保健機構(HAS)は、高齢者や脆弱な人々と接する医療・福祉従事者を対象に、インフルエンザ予防接種の義務化を勧告した。
全国看護職専門家組合(SNPI)の報道官ティエリ・アムルー氏は、この勧告を支持した。「患者に予防接種を勧めるなら、私たち自身も接種しているのが当然だ」とフランスインフォに語っている。
同氏によれば、現在インフルエンザワクチンを接種している医療従事者はわずか20%にとどまる。その主因は「ワクチンへのためらい」ではない。「産業医療機関の開いている時間帯が限られているなど物流上の問題」だという。
農薬の問題とは、やや逆の構図である。農薬では専門機関の判断に委ねること自体が争点となった。予防接種では、専門機関の勧告を現場の組合が歓迎し、実施の仕組みが焦点になっている。
それでも、義務化は科学だけで決まるものではない。感染リスクを下げるという知見があっても、個人の自由と集団の安全をどう釣り合わせるかは、社会の選択に関わる。
専門機関が出すのは重要な判断材料である。しかし、その判断を誰に、いつから、どの範囲で適用するかは、制度をつくる側が決める。農薬でもワクチンでも、科学はあらかじめ設けられた枠組みの中で力を発揮する。
欧州の「予防原則」と、農家が感じる不公平
EUでは、「予防原則」が政策の柱とされている。科学的不確実性が残る場合でも、予防的に規制するという考え方だ。
フランスがアセタミプリドをいち早く禁止した背景にも、この姿勢がある。今回の農業緊急法案は、その原則に例外の切れ目を入れる動きとも解釈できる。
ただし、この構図は単純ではない。EUでは認められているのに、フランスでは禁止されている。その違いは、フランスの農家にとって「不公正な競争にさらされている」という訴えの根拠にもなっている。
環境を守るための規制が、国内の生産者には重い負担として働くことがある。食料安全保障や農業保護が強調される時代には、環境規制の例外を求める声が強まることもあるだろう。
欧州では、環境保護と市場の公平性、農家の暮らしを同じテーブルに載せて議論する。その摩擦が、フランス議会では可視化された。
日本では、どこで決まっているのか
日本でも、農薬の安全基準や医薬品の承認は、審議会や専門機関の意見を踏まえた行政判断で行われることが多い。
一般に、日本の政策決定では官庁・審議会への専門知依存が強いとされることが多い。その枠組みにおける意思決定の論理は、外から見えにくい。「不信の温床」になりやすいとも言われる。
フランスのように、議会で農薬の使用や専門機関の役割をめぐる激しい論争が表面化する場面は、日本では相対的に少ないかもしれない。だが、公開の対立が少ないからといって、価値判断が行われていないわけではない。それは、見えにくい場所で、見えにくい形で進んでいるとも言える。
アメリカでは、また違う緊張がある。科学的評価が党派的対立の道具になり、専門機関の権威そのものが政治的な争点になりやすいとされる。EPA(環境保護庁)の規制基準が政権交代によって大きく揺れ動くことは、専門知の安定性を損なうという点で、フランスとは異なる問題を示している。
専門家に任せすぎても、政治が専門知を直接揺さぶっても、社会は不安定になる。その間に、簡単には答えの出ない距離がある。
「科学が決める」と聞いたとき
Ansesが環境認可プロセスの一部を担い、HASがワクチン政策の勧告を出す。独立専門機関は、フランスの政策を支える重要な柱である。
しかし今回の農業緊急法案は、その独立性の外側にも政治があることを示した。所管省庁をどこに置くのか。判断の期限を誰が定めるのか。例外の対象をどのように区切るのか。専門機関が評価を始める前に、こうした枠組みはすでに決められている。
科学は、社会に必要な事実や見通しを与えてくれる。だが、将来の授粉昆虫の生存と今日の農家の収入のどちらを優先するのか。高齢患者の感染リスクと医療従事者の選択の自由のどちらに重きを置くのか。その答えは、科学だけからは生まれない。
「科学が決める」という言葉は安心を与える。けれど、その前に誰かが問いを設定し、比較するものを選び、判断の期限を決めている。
次にこの言葉を聞くとき、私たちは何を専門家に委ねているのか。そして、何を自分たちで話し合うべきなのか。少し立ち止まって考えてみてもよいのかもしれない。