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ダンスフロアが問う、表現の自由の条件
editorial

ダンスフロアが問う、表現の自由の条件

2026/7/23

夏の野外フェスティバル。ビートが鳴り響き、人々が踊る。そこに活動家たちが乱入し、抗議行動が繰り広げられた。

フランス東部グルノーブルで開催された「カバレ・フラペ」フェスティバルで起きた出来事は、一つの問いを鋭く浮かび上がらせた。国際紛争への政治的立場が、ダンスフロアという最も「日常的」な文化空間に流れ込むとき、誰がその場の安全と自由を守るのか。

問題の中心にいるのは、DJのバルバラ・ブッチ(Barbara Butch)だ。パリのLGBTQ+ナイトシーンを代表する45歳のフランス人DJで、2024年のパリ五輪開会式にも出演した彼女は、フランスインフォの取材に「ショック状態が続いている」と語りながらも、「感じさせようとされているこの恐怖に屈するつもりはない」と明言した。

「ボイコット」が「暴力」に変わった夜

活動家らが問題視したのは、ブッチの政治的スタンスだった。具体的には二点ある。一つは、2025年に在イスラエル・フランス大使公邸で開かれたイベントへの参加。もう一つは、「新たな形の反ユダヤ主義と闘う」ことを目的とした「ヤダン法案」を支持する声明への署名だ。この法案は、批判側からイスラエルによるガザ攻撃への抗議を封じるものだと激しく反発され、最終的に撤回されている。

つまり抗議の論理はこうだ。ブッチはイスラエル寄りの立場を取っており、その立場に同意できない者はボイコットする権利がある。この論理自体は、民主主義社会における表現の自由の範囲内に収まりうる。実際、左派政党「不服従のフランス(LFI)」調整役のマニュエル・ボンパールは「政治的立場が抗議を引き起こすことは、抗議が平和的なものである限り理解できる」とフランスインフォに述べている。

しかし「平和的な抗議」と「暴力」の境界が、グルノーブルのフェスティバルでは踏み越えられた。ブッチはリベラシオン紙に「目の前にいる人たちの目に憎しみを見た」と語り、グルノーブル市のロランス・リュファン市長は「暴力と電気設備の破壊行為を示す証拠がある」と発表した。司法当局は「自由を組織的に妨害する罪」として捜査を開始したとフランスインフォが報じている。

ブッチ側の弁護士オドレ・ムセラティは、LFI、一部の所属議員、極右メディア「オメルタ」、評論家アラン・ソラルに対して憎悪と暴力の扇動を理由とした複数の告訴を準備していると明らかにした。告訴の対象リストに、左派政党と極右メディアが並んでいる事実は、この問題がシンプルな「左対右」の図式に収まらないことを示している。

フランスという国の、複数の記憶が交差する場所

ここで見過ごされがちなのは、この出来事がフランスという固有の歴史的文脈の中で起きているという点だ。

同じ時期、パリ市はパリ1区にある「モーリス・バレス広場」を「リュシー・ドレフュス広場」に改称する意向を発表したとフランスインフォが報じている。モーリス・バレスとは19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した人気作家・政治家で、同時に熱烈な反ユダヤ主義者でもあった人物だ。彼は1904年に「ドレフュスが裏切ることができると、私は彼の民族から結論づける」と書いており、ユダヤ人将校アルフレッド・ドレフュスが偽の証拠によって反逆罪に問われた「ドレフュス事件」の最も過激な反ドレフュス派の一人だった。

一見すると、バルバラ・ブッチの事件と広場改称は別々のニュースに見える。しかし両者は同じ地層の上に立っている。フランスにおける反ユダヤ主義の歴史は、単なる過去の出来事ではなく、現在の政治的緊張を照らし出す鏡として機能している。ドレフュス事件から120年を経た今年、その名誉回復の決定から120周年が祝われたと報じられているが、その同じ年に、ユダヤ系のDJが公演中に抗議活動の標的とされる事態が起きた。

ブッチ自身もインスタグラムで「イスラエルの政策とユダヤ人であることを誰もが混同している」と遺憾の意を示したと報じられている。加えて、ブッチはLGBTQ+コミュニティを代表する存在でもある。パリ五輪開会式への参加後には、肥満嫌悪、レズビアン嫌悪、反ユダヤ主義が絡み合ったネット上の嫌がらせを受けたと報じられており、今回の事件は彼女にとって孤立した出来事ではない。政治的立場を理由にした攻撃が、アイデンティティ全体への攻撃と複合的に重なっているのだ。

文化空間は、誰のためにあるのか

文化相のカトリーヌ・ペガールが公演3日前にブッチと直接面会し、「アーティストとして表現する条件を守り、作品と本人の完全性を保障することが自身の役割だ」と伝えたことは、フランスにおいて文化担当大臣が芸術家の身体的安全に言及せざるを得ない状況を示している。これは日本の感覚からすると少し奇妙に映るかもしれない。音楽フェスで国の文化相が特定アーティストの安全を公言する事態が、どれほど例外的なことかを考えると、グルノーブルで起きたことの重さが伝わってくる。

一般に日本では、海外の紛争をめぐる対立が音楽フェスやクラブの現場を直接分断することは比較的少ないとされる。しかしそれは、問題が存在しないということではない。SNSを通じた表現への圧力や、政治的立場を理由にした動員はすでに起きており、フランスで「物理的な会場」で起きたことが、別の形で「オンライン空間」に現れることは十分考えられる。

米国では、大学キャンパスや芸術機関が、ガザ問題をめぐって寄付者・行政・活動家の対立の場となったことが広く知られている。一般に「表現の自由」への強い信念を持つとされる米国でも、コンサートのキャンセルや演奏者へのボイコット圧力が相次いだとされており、問題はフランス固有の現象ではない。

ただし、フランスのケースに独自性があるとすれば、それは「ライシテ(政教分離と世俗主義)」という国家原理と、パレスチナ連帯の表現と反ユダヤ主義への警戒が鋭く対立する社会的文脈、そして政治的抗議に強い正当性を与えてきた長い伝統が複雑に交差している点だろう。抗議は権利だ、しかし暴力は許されない——この当然に見える線引きが、実際の現場では容易に崩れうることをグルノーブルは示した。

ブッチは「人々が混ざり合い、愛し合い、出会えるダンスフロアを取り戻したい。政治とは無関係で、誰もがひと休みできる場所」だと語ったとフランスインフォは伝えている。しかし彼女自身が告白したように、「本人の望みに反して政治的な象徴となった」。

表現の自由が形式的に保障されていても、現場で身体的な恐怖を感じれば、アーティストは自己検閲するか、出演そのものをやめる。どちらの選択も、文化空間の多様性を静かに痩せ細らせていく。

文化相が介入し、司法が動き、政党が内部でも批判を受け、広場の名前が変えられる。これらの動きはすべて、誰が文化空間の安全と自由を守る責任を負うのかという問いへの、それぞれの答えだ。しかしその問い自体は、まだ解かれていない。

抗議する自由を守りながら、文化空間を個人攻撃や排除の場にしないために何が必要なのか。そのために社会は何を制度化し、何を規範として共有しなければならないのか。グルノーブルのダンスフロアで起きた衝突は、そこに集まっていたはずの人々全員に向けて、その問いを突きつけた。

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