犯罪への怒りは、いつ「外国人への怒り」に変わるのか——フランスの裁判が映す社会の緊張
2026/7/24
16歳の少年がナイフで刺されて死んだ。村の冬の舞踏会の夜に。
2023年11月、フランス南東部ドローム県クレポルで起きたトマ・ペロットさんの死は、フランス社会に深い悲しみと怒りを残した。若い命を奪われた家族への同情。暴力そのものへの憤り。それは自然な反応だろう。
だが、この事件はほどなくして別の文脈にも置かれた。被害者側のクレポルの若者たちは農村の白人が多く、この非対称が、事件を「移民問題」「多文化主義の失敗」として語る言説を急速に呼び込んだ。
一つの犯罪を、どこまで個人の行為として扱えるのか。加害者とされる人々の出身や国籍が報じられるとき、社会はいつから事件そのものではなく、ある集団への不安を語り始めるのか。クレポルの裁判は、その境目を問いかけている。
司法が扱うもの、政治が求めるもの
フランスアンフォなどの報道によれば、司法はこの事件について慎重な姿勢を保ってきた。
ヴァランス検察は2025年6月の最終論告で、容疑者14人のうち11人を少年重罪院に送致するよう求めつつも、「事件の人種的動機は現段階で認定されていない」と明記した。捜査では、「双方から」人種差別的な侮辱が発せられたとする証言も出ていたとされる。
この点は、「一方的な人種憎悪による犯行」という政治的な語り方との距離を示していた。裁判が確かめようとするのは、何が起きたのか、誰がどのように関与したのか、証拠は何を示すのかということだ。一方、政治や世論はしばしば、事件にもっと大きな意味を求める。
ところが今回、予審判事は方向を転換した。一部の民事当事者が「白人に敵意を示す発言があった」とする証言を考慮するよう意見書を提出したことを受け、起訴対象の全員に人種差別を加重事由として認定したことがフランスアンフォの報道で明らかになった。
検察が認めなかった要素を、判事が認定する。この構図は、法的手続きの複雑さを物語る。同時に、社会的な関心が強い事件ほど、司法の言葉が政治的に受け取られやすいことも浮かび上がらせる。
人種差別を加重事由として認定することには、法的に重い意味がある。ただし、これはあくまで判事の判断であり、最終的な起訴決定書が検察の求刑に従うかどうかはまだ決まっていない、とフランスアンフォは伝えている。
「外国籍の未成年者」という言葉の重さ
同じ週、フランス西部レンヌでも、別の事件が報じられた。
帰宅中の80歳女性が路上で襲われ、強姦された疑いで、モロッコ出身の未成年者が正式な捜査対象となった。フランスアンフォの報道によれば、容疑者はDNA鑑定と防犯カメラ映像によって特定され、コカインを小分けにして所持していたとも伝えられた。
80歳女性。外国籍。未成年。麻薬。モロッコ。
どれも事実の報告である。だが、見出しや短い記事のなかで並ぶと、それらは単なる情報ではなくなる。「外国籍の未成年による高齢女性への性犯罪」という印象が強く残り、一つの事件が「移民問題」の証拠のように扱われ始める。
フランスは、出自や宗教ではなく「市民」として個人を扱うという共和主義的普遍主義を建前としてきた。そのため公式統計では民族・宗教・人種の区分が制限されている。
「移民系の人が犯罪をしやすい」といった言説は、データの制度的欠如ゆえに検証もしにくい。しかし、その空白では印象と臆測が数字の代わりに流通する。人々は統計ではなく、事件名で社会を考える。クレポルやレンヌという固有名詞が、移民政策への感情の転換点になっていく。
これは、統計を取らないことが偏見をなくすとは限らない、というフランスの難しさでもある。個人を属性で分類しない理念と、人々が抱く不安に向き合う必要の間には、簡単には埋まらない距離がある。
身分証を失い、「存在しない」人になる
治安をめぐる議論では、移民はしばしば「社会に入ってくる人」として語られる。だが同じ週のニュースには、フランスという国のなかで、制度からこぼれ落ちていく人の姿もあった。
マヨット島生まれのファティマさんは、12歳の頃からフランスの身分証とパスポートを持っていた。コモロ人の両親のもとに生まれたが、全課程をフランスの学校教育で修了し、国防の義務も果たした。
ところがフランス本土に移住し、身分証の更新手続きに臨んだ際、行政から「フランス国籍を持つことを証明せよ」と求められた。数十年前の書類の一部は自然災害で失われ、一部は存在しない。
有効な身分証を失った彼女は現在、働くことも多くの行政手続きも行えない状態にある。「私は存在しない。どこにも属していない」と、4人の子どもを育てる彼女はフランスのニュースサイト、ラ・プルミエールにそう語ったと報じられている。
弁護士のラスミア・ハルーナ氏は「ファティマのようなケースは見たことがない」と述べたと同記事は伝えている。
一方では、事件の容疑者の国籍や出身地が強調され、「移民」が潜在的な脅威として語られる。他方では、長年フランス人として生きてきた人物が、行政の不備によって無国籍状態に追い込まれ、社会のなかで見えなくなっていく。
移民をめぐる議論は、治安や国境管理だけでは終わらない。誰がこの国に属しているのか。誰が制度の保護を受けられるのか。その問いは、犯罪のニュースとは別の場所にあるようで、実は深くつながっている。
海峡で救助された約150人
パ=ド=カレー県ベルク=シュル=メール沖でも、同じ週に出来事があった。過積載の船に乗っていた移民約150人が救助された。
SNSM(フランス海難救助協会)ベルク=シュル=メールの責任者は、「移民危機の歴史上、最大あるいは最大級の人数だ」とフランスアンフォに語った。
この人々は今、どこに向かっているのか。フランスの治安をめぐる文脈で語られるのか。それとも、人道的保護を求める人々として語られるのか。
同じ人間について、どちらの語り口を選ぶか。その選択が政治の争点になっている。欧州では移民をめぐる議論が、国境、労働、福祉、治安、植民地の歴史までを巻き込む。だからこそ、一つの事件が社会全体の不安を受け止める器になりやすいのかもしれない。
日本で広がる「外国人犯罪」の印象
この問題は、フランスだけのものではない。
日本社会でも、外国籍の人物が関与した犯罪は、日本人が関与した同程度の事件よりも大きく報道される傾向があると指摘されることが多い。在留外国人が増加する中で、「外国人犯罪が増えている」という印象と実際の統計との間に乖離があるとする研究者もいると言われる。
日本の場合、さらに見えにくいのは被害者の側である。在留資格が不安定な人、日本語が十分に話せない人は、被害に遭っても警察に届け出ることに高いハードルがある、とされることが多い。
外国人であることは、加害と被害の両方で「制度との接点を失う」要因になりうる。ファティマさんが身分証を失って働けなくなった状況は、制度的暴力であれ、個人の暴力であれ、「可視化されない弱者」が生まれる構造として日本にも通じる。
米国では、移民と犯罪を結びつける選挙言説が特に強力な政治ツールとして機能してきたとされる。取り締まりの強化が人種的不平等と直結するという批判は長年にわたって提起されてきた。一方で、国境管理の強化を求める世論も強い。
フランス、日本、米国。それぞれの制度や歴史は異なる。それでも、犯罪への正当な怒りが、個人の責任を問うところから、属性への疑念を正当化する方向へ移っていく過程には、似た構図が見える。
個人を裁くことと、集団を疑うこと
クレポルの事件で問われるのは、14人の個人の行為と責任である。その一人ひとりの関与の度合い、証拠の強度、量刑の根拠。それが司法の問いだ。
しかし社会は、個別の裁判を待つことが苦手なのかもしれない。事件が起きると、そこに「移民が引き起こした白人への戦争」といった大きな物語を重ねたくなる。被害者側の遺族にとって、人種差別を加重事由として認定することは一定の正義と感じられるかもしれない。
同時に、その認定が加害者の側の若者たちを「移民問題」の象徴として一括りにする物語を強める可能性もある。
治安への不安を正面から受け止めながら、その怒りを「属性への疑念の常態化」に変えずに保つことは、本当に可能だろうか。
ファティマさんのように制度から弾き出される人が出るほど厳しくなった移民管理が、かえってコミュニティの信頼と協力を損ない、治安を弱める方向に働くとしたら。そのことを、クレポルの事件を語る政治家たちはどれだけ意識しているだろうか。
深刻な犯罪への怒りは正当だ。けれど、その怒りが無関係な人々の居場所を奪う力になったとき、社会は何を守り、何を失うのだろう。