焼け跡に立つ男が見つめた「先祖代々の家」と、土地を持つことの重い意味
2026/7/27
フランス南西部ジロンド県、ル・ポルジュ。焼け跡に初めて足を踏み入れたマチュー・プレシスさんは、こう語ったと報じられている。「もう何も見えません。荒廃した光景と、先祖代々の家が見えるだけです。祖母はこの家で生まれました」。彼が見ていたのは、単なる不動産の損失ではない。何世代にもわたってその土地に根を張ってきた家族の記憶そのものが、40メートルを超える炎に飲み込まれた光景だったと考えられる。
この村では少なくとも175軒の住宅が全焼したと報じられている。町長のマルシャル・ザニネッティ氏は「町は高さ40メートルを超える炎に完全に包囲された。壊滅的で、耐えられる限界に近い状況だった」と述べたという。奇跡的に負傷者は出なかったものの、副町長は「もう話せません」と言葉を失ったと伝えられている。
同時期、隣接するランド県からジロンド県にかけての一帯では、乾燥・高温・強風という悪条件が重なり、4日間で約4万2000ヘクタールが焼失し、200軒以上の住宅が失われ、22万人が陸路と海路で避難を強いられたと報じられている。消防士たちは「まるで戦争のようだ」と語り、18時間連続の消火活動の後にわずか3時間眠るという状況が続いたという。ボルドー近郊では新たに5万5000人が避難対象に加わり、都市そのものが火災の射程に入ったことも伝えられている。
隣国スペインでも同じ週、マドリード州やバレンシア州で計7万5000人が避難したと報じられている。マドリード近郊アビラの火災は最大2万5000ヘクタールを焼き、当局者によれば「近年のスペイン史上最大規模」だという。ペドロ・サンチェス首相は「これから困難な時間が続く」と述べ、気候変動に対処するための国民的合意を改めて呼びかけたと伝えられている。これはもはや一国・一地域の異常気象ではなく、南欧全体を覆う季節的な現実になりつつあるのかもしれない。
ここで見過ごされがちなのは、この火災が単なる「自然災害」として片づけられない側面を持っている点である。ジロンド県には、ミサイル推進薬を扱うArianeGroupの施設や、ミサイル用推進システムを開発するRoxelの施設など、セベソ指令の「高位しきい値」に分類された危険物施設が立地していたと報じられている。火災の進路がこうした施設に迫ったため、当局は防火帯となる溝を掘り、延焼抑制剤を散布し、あえて炎の前方の植生を焼く「戦術的な火災」まで用いて延焼を食い止めたという。土地に何を建て、何を保管するかという選択が、火災が起きた瞬間に地域全体の安全と直結する――この一件は、土地利用が私的な決定であると同時に公共的なリスク管理でもあることを、極めて具体的な形で示していると考えられる。
そしてもう一つ、忘れてはならない視点がある。日頃から土地を管理し、水源や道を把握している人々こそが、非常時には最も頼れる「インフラ」になり得るという点だ。裏を返せば、平時に土地がどう手入れされているか——茂みが刈られているか、農地が維持され防火帯として機能しうる状態にあるか——が、火災が起きたときの被害の規模を左右するということでもある。フランスでは、土地の所有者や自治体に周辺の下草・枯れ枝を除去する義務が課される慣行があるとされ、農地や放牧地が延焼を食い止める緩衝地帯として位置づけられることも多いと言われている。つまり土地を持つことは、単に囲い込んで使う権利ではなく、燃えやすい状態を放置しない責任と隣り合わせにある、という感覚がこの国には根強くあるのかもしれない。
この構図を日本に置き換えて考えるとき、浮かび上がるのは事情の違いだ。日本の森林は小規模な私有地が分散して存在し、所有者の高齢化や不在地主化によって、下草刈りや間伐といった管理そのものが行き届きにくくなっていると一般に言われる。土地を持っていても、実際にそこへ足を運び手を入れる人がいない、という状況が広がっているとすれば、フランスで根付いているとされる「土地管理者=防災の担い手」という構図は、そもそも成立しにくいのかもしれない。義務を課す以前に、担い手そのものをどう確保するかという、より根の深い問題がそこにはあると考えられる。
一方でアメリカについては、山火事の危険が高い地域にまで住宅開発が広がり、住む自由と土地利用規制がせめぎ合っているとされることが多い。危険な立地に人が住み続けようとする力と、それを保険や規制でどう制御するかという議論は、フランスの「除草義務」とは別の角度から同じ問いに突き当たっている——つまり、個人が土地に対して持つ自由と、その土地が周囲に及ぼすリスクを、社会としてどう線引きするのか、という問いである。
視点を少し変えて、火災そのものではなく「燃えた後」に目を向けた研究にも触れておきたい。エソンヌ県サクレー高原の実験果樹園では、研究者たちがルーマニアやイタリア、デンマークなど各地由来のリンゴの木を集め、DNAを比較しながら、干ばつを経ても再び実をつけられる遺伝的な性質を探していると報じられている。国立農業・食料・環境研究所の研究者は「何度も干ばつに見舞われた後、木はどの程度、再びリンゴを実らせることができるのか」を問い続けているという。これは火災対策そのものではないが、同じ気候変動という土壌から生まれた営みだと言える。土地を利用する人間が、目の前の被害を防ぐだけでなく、何十年も先を見据えて木や畑のあり方を変えていく――これもまた、土地に対する責任の一形態と考えられる。
今後、フランスではこうした大規模火災を受けて、危険物施設周辺の土地利用や、住宅と森林の境界線のあり方について、より踏み込んだ規制論議が起きる可能性がある。防火帯の維持や下草管理を個々の所有者任せにせず、費用や労働を自治体や国がどこまで肩代わりするのかという議論も、避けて通れなくなるかもしれない。日本でも、担い手不足に悩む山林をどう防災インフラとして機能させ直すかは、人口減少が進むほど切実になっていくはずだ。
土地を持つという行為は、そこに囲いを作り、誰かを排除する権利であると同時に、雑草を刈り、水を確保し、いざというときに隣人や消防を助ける立場に立つことでもある——ル・ポルジュの焼け跡に立ったマチュー・プレシスさんの姿は、そのことを静かに、しかし強く物語っていたのではないだろうか。あなたが土地を持つとしたら、その土地は誰かを守るために、どんな手入れを引き受けるべきだろうか。