首を絞める真似と、5つの静かな遺体――フランスの夏、「誰を守るか」の線引き
2026/7/29
祭りの夜の短い動画が、人々を二つに分けた。
アルデンヌ県ルテルで、元テレビ司会者パスカル・ソエトンスは自撮りに応じていた。背後から一人の少年が近づき、笑いながら彼の首に手をかけた。強い力ではなかったという。
ソエトンスは瞬時に少年を押し返し、蹴りを入れ、足払いをかけた。市警察官や憲兵は一部始終を見ていたが、割って入ったのはしばらく経ってからだった。動画はXだけで400万回再生され、コメント欄は割れた。
「悪ふざけに過剰反応しただけ」という声。
「よくやった」という声。
共和主義的価値の擁護連盟という団体は、未成年者への故意の暴力にあたるとして被害届を出すと発表した。
この一件に、簡単な結論は出ない。首を絞める真似をした少年は、危険な行為をした加害者なのか。それとも、「悪ふざけ」という言葉で守られるべき未成年者なのか。蹴り返した大人は被害者なのか。あるいは、体格差を利用して未成年に暴力を振るった加害者なのか。
安全のための反応と、力の濫用。その境目は、動画を何度見返しても、明快には定まらない。
そしてこの夏のフランスでは、同じような線引きの難しさが、別の場所でも姿を見せている。
火をつけた人を、どう見るのか
南仏では、山林火災の容疑者として184人が拘束された。内相ローラン・ニュネズによれば、5人がすでに実刑判決を受け、15人が未決拘禁中だ。
ただ、裁判記録から浮かぶのは、単純な「悪意ある放火犯」の姿だけではない。
ヴォージュ県で禁錮の実刑を受けた40代男性は、薬物をやめるために森で暮らしていた人物で、「寝床を快適にするため」草に火をつけたとされる。鑑定した精神科医は彼に「火への魅惑」を認めたが、放火癖という診断は下さなかった。
放火癖は、火への執着を含む複数の厳格な基準をすべて満たさなければ成立しない、限定的な精神医学上の概念だからだ。
ピレネー=オリアンタル県では自閉症でアルコール依存の36歳男性が、判断力の低下、いわゆる「識別能力の減退」を裁判所に認められた上で実刑を受けた。カルバドス県では統合失調症の57歳男性が、テレビで繰り返し流れる別の火災報道に影響されたと語り、「死への衝動のようなものだった」と振り返っている。
フランスの司法は、依存症、精神疾患、判断力の減退といった事情を、危険な行為の外側に置いてはいない。量刑を考える際、その脆弱性を組み込もうとする。
一方で、内相は迅速で厳しい対応の証として実刑件数を発表する。予防と処罰。治療と収監。この二つは必ずしも両立しないものではない。けれど現実には、強い緊張をはらむ。
ある人を「危険因子を抱えた保護すべき人」と見るのか。それとも「取り締まるべき加害者」と見るのか。鑑定医の判断や検察官の言葉によって、その位置づけは大きく変わりうる。
見つけても、居場所は伝えない
安全のために介入しながら、介入しすぎない。そんな難しさは、失踪者の捜索にもある。
失踪者支援・捜索協会(ARPD)は、警察が優先的に扱わない成人の失踪――家族関係の断絶や自発的な家出――を、約1,000人のボランティアで支えている。
担当者イザベル・クリュザンが語るように、フランスでは成人には「姿を消す権利」がある。ARPDは本人を見つけても、居場所を家族に明かさない。家族に伝えるのは、「生きている」という事実だけだ。
家族にとっては、居場所を知りたいという切実な願いがあるだろう。だが、本人には自らの人生を選び、沈黙する権利がある。捜索は救済にもなりうる一方で、本人の意思を越えてしまう行為にもなりうる。
OSINTコーディネーターのポリーヌ・シャルピは、パリの野営地で出会ったアフガニスタン人男性の捜索を振り返り、「彼らは社会から見過ごされている人々だから」と語った。
捜索する側が向き合っているのは、単に行方の分からない人ではない。制度の網からこぼれ、社会の視界から遠ざかった人々でもある。
声を持たない存在を、いつ社会は見つけるのか
この夏、最も重く、最も声を持たない当事者が関わる事件も起きた。
ヴォクリューズ県オランジュの住宅で、5人の乳児のものとみられる遺体が見つかり、32歳の母親が身柄拘束下で取り調べを受けている。検察は殺人の疑いで捜査を開始した。
確定的なことを書くのは時期尚早だし、書くべきでもない。
ただ、パートナーが「妊娠に気づかない状態」を経て女性が出産していたという検察の説明は、この種の事件が単純な悪意だけでは語れないことを思わせる。そこには、深い孤立や否認の構造がある場合もあるのかもしれない。
司法が問うのは、「罰すべき加害者は誰か」だけではないだろう。「なぜ誰も気づけなかったのか」という、予防の失敗もまた問われる。
社会は、声を持たない存在を、結果としてしか見つけられなかった。
介入が足りないとき
介入を慎重にすべき場面がある一方で、介入の不足が問題になる場面もある。
反ユダヤ主義と闘う団体ADLは、2025年に世界7カ国で反ユダヤ主義による殺人攻撃が過去30年で最多になったと発表した。事案数は2022年比で136%増、暴力を伴う事案は97%増だった。
ADLが政府に求めているのは、事件の後ではなく前の対応である。警備の強化、法整備、SNS事業者による自主規則の厳格運用。ここでは、「事前の介入」が必要だと考えられている。
ソエトンスの一件やARPDの活動には、介入のしすぎへの警戒がある。これに対しADLの報告は、介入が足りないことへの警鐘である。
同じ「安全のための介入」でも、求められる方向は正反対になりうる。
線は、誰のために引かれるのか
5つの出来事に共通するのは、ひとつの答えではない。誰かを守るための監視、通報、処罰、捜索には、必ず線引きがあるということだ。
誰を疑うのか。誰を保護するのか。誰の意思を尊重するのか。
その線は、対象が未成年か成人か、精神疾患があるかないか、声を上げられる立場かどうかによって、大きく揺れる。
フランスでは、精神鑑定や司法手続きによって、その判断の理由を表に出そうとする場面がある。放火犯の識別能力を精神科医に判定させること。成人の失踪には、権利として沈黙を認めること。その線引きを、少なくとも制度の言葉で説明しようとする伝統がある。
もちろん、手続きがあれば公平さが保証されるわけではない。世論やSNSの拡散、政治的な圧力は、制度が示す慎重な線を簡単に揺るがす。ソエトンス事件のコメント欄の分裂は、その縮図にも見える。
日本でも、似た問いは身近にある。学校や地域で「あの子は危ない」「あの人はおかしい」と、非公式な形で線が引かれることがある。一方で、オンライン上の炎上や誹謗中傷を前にすれば、より強い監視や介入を求める声も出る。
線引きの理由が見えなければ、検証も難しい。誰かを守るための仕組みが、別の誰かを排除していないか。あるいは、守るべき人を見落としていないか。問い直す機会も失われやすい。
AIによる予測的治安対策が広がれば、この線引きは人間の鑑定医や検察官だけでなく、アルゴリズムにも委ねられていくだろう。危険の兆候を、誰が、どんなデータで定義するのか。誤って線の内側に入れられた人を、誰がどう救い出すのか。
祭りの夜の動画に戻ると、見えてくるのは一人の少年と一人の大人だけではない。私たち自身もまた、日々、誰を守り、誰を危険と見なすのかを判断している。
その線が自分に向けられたときも、私たちは同じように「安全のため」と受け止められるだろうか。