
戸棚から見つかった2019年の事件記録——公権力を検証するのは誰か
2026/8/12
ブーシュ・デュ・ローヌ県のある警察署で、2019年の日付が入った性的暴力の事件記録が、戸棚の奥から「掘り出された」という。捜査員はフランス・アンフォの取材にこう証言している。「これほど時間がたってから、事件が進展していないと被害者に伝えるため連絡を取るのは、当然ながら喜ばれることではない。そのため、私たちは謝罪している」。6年間、その被害者は自分の申告がどこにあるのかも知らずに過ごしてきた可能性がある。
これは特殊な一件ではない。リアナ事件を受けてジェラルド・ダルマナン法相が命じた全国調査で、検察が把握している未成年者への性的暴力事件の件数と、警察・国家憲兵隊が実際に保有している件数との間に、大きな食い違いがあることが明らかになった。ニームでは「幽霊案件」が1,275件(警察875件、国家憲兵隊400件)、カーンでは905件の未登録手続きが見つかり、ブールジュでは約15件の記録が「完全に、そして単純に紛失した」と法相の書簡には記されている。ル・モンドとAFPが確認したこの12ページの文書は、被害申告から検察への到達までの経路のどこかで、記録が繰り返し失われていることを示している。
なぜ、こんなことが起きるのか。ここで見過ごされがちなのは、これが誰か一人の悪意や単純な怠慢の問題ではなく、複数の構造的な穴が重なって生じているという点だ。紙の書類が移送の際に届かないことがある、という警察労組の説明。ソフトウエアの改善が不十分で「効果的な追跡可能性が確保されない」という文書自体の指摘。担当職員が病気休暇や異動、退職で不在になった際、事件記録が組織的に再割り当てされない現実。そして何より、増え続ける被害申告の件数に対して、専門の捜査員や司法官の数が追いついていないという慢性的な人員不足。司法官労組の全国書記が語るように、「空席のポストが多く、手続きを登録する担当者が不在ということも非常に多い」。だから記録は事務所に置かれたままになる。誰も悪意を持って隠したわけではないのに、被害者の申告は制度の隙間に落ち続けている。
この構図は、同じ週にフランスで報じられた別の二つの出来事とも、静かに響き合っている。レンヌでは、電動キックボードに乗った22歳の男性がCRSの車両に衝突して重体となり、トゥールーズでは、交通検問に従わなかった17歳のスクーターの少年が、警察の追跡の後に死亡した。前者では警察の総監察局(IGPN)が捜査を引き継ぎ、後者では死因の究明と公務執行への不服従をめぐる2件の捜査が別々に開始された。ここで注目したいのは、事件そのものの是非ではなく、「警察の対応そのものが検証対象になる」という制度の存在だ。フランスでは、公権力の行使に疑いが生じたとき、それを外部あるいは半独立の機関が調べる仕組みが、少なくとも建前としては機能している。しかしその一方で、性的暴力の被害申告という、警察自身が「受け取る側」にいる場面では、検証の目が届きにくく、記録そのものが消えてしまうという逆の現象が起きている。つまり公権力への監視は、事件が「起きた後」には比較的機能するが、被害者の声を「受け止める入口」では脆いという非対称が、この二つの出来事の対比から読み取れる——これはあくまで筆者の解釈だが、そう考えると両者は同じ問題の表と裏に見えてくる。
少し視野を広げると、司法をめぐる「誰が権力を検証するか」という問いは、フランス国内だけの話ではない。ハンガリーでは、オルバン元首相の下で2012年に最高裁判所長官を解任されたアンドラス・バカ氏が、議会によって大統領に選出された。バカ氏は判事の定年引き下げを「偽装された粛清」だと批判した末に職を追われ、4年後、欧州人権裁判所はその解任が政治的な性格を持っていたと認定している。国内の司法権が政治権力に押し切られたとき、それを覆したのは国境を越えた人権裁判所だった。そして今、親欧州派の新政権はバカ氏の選出を「法の支配への献身の一例」として掲げている。ここにあるのは、一国の司法が公権力から独立を保てなかったとき、国際的な検証機構がそれを補う役割を果たし、その記憶が後に政治的な正統性の象徴として回収されるという、長い時間軸の物語だ。
レバノンの死刑廃止も、視点を変えれば同じ問いの延長線上にある。中東で初めてこの決定を下した同国で、司法相は「歴史的」と評し、フランス外相は「歴史的で勇気ある」と歓迎した。人権団体の研究員は「そもそも宣告されるべきではなかった残酷で恣意的な刑罰との明確な決別」だと述べている。死刑という、国家が個人に対して行使できる最も重い権力を手放すという決定は、公権力がどこまで自らの力を制限するかという意思表示でもある。フランスの「幽霊案件」、ハンガリーの人事、レバノンの立法——規模も文脈もまったく異なるこの三つに共通しているのは、公権力を野放しにしないための仕組みを、誰がどう設計するのかという同じ根の問いだと、筆者は感じる。
日本の読者にとって、この話はどう響くだろうか。日本でも、被害申告が確実に記録され、捜査機関の対応が独立した立場から検証される仕組みがどこまで機能しているかは、一般に継続的な課題として議論されることが多いとされる。ただ今回のフランスの事例が突きつけているのは、制度の建前が整っていても、紙の書類、老朽化した情報システム、人員不足という地味な現場の問題が積み重なれば、被害者の声は簡単に「幽霊」になり得るという事実だ。米国では、警察の対応をめぐる映像や記録が社会的な検証の手段として注目されることがある、とされるが、そこでも地域による対応の差が大きいと言われる。映像や記録が可視化の入口になる一方で、それを撮影し、拡散する負担が被害者や市民の側に押し付けられているとすれば、それもまた別の不均衡だろう。
ダルマナン法相はこの機能不全を「司法公共サービスの深刻な機能不全」と位置づけた。この言葉が意味するのは、被害者が声を上げても、その声が確実に届く保証がなければ、司法への信頼そのものが崩れるということだ。記録管理と独立監察の整備は、地味で、目立たない予算配分やシステム更新の問題に見える。しかしそここそが、被害者が「証拠を自分で示さなくても信じられる」司法の土台になる。
被害者が声を上げたとき、その声が組織の戸棚の奥で6年間眠ってしまわない制度を、私たちはどうすれば作れるだろうか。