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SNSは禁止できないのに、デモは禁止できる――フランスが8月14日に引いた自由の線
社会

SNSは禁止できないのに、デモは禁止できる――フランスが8月14日に引いた自由の線

2026/8/15

8月14日金曜日、パリの憲法評議会は一日のうちにいくつもの判断を下した。15歳未満のSNS禁止案には「表現および通信の自由に対して過度な侵害を与える」として待ったをかけた一方、フリーパーティーや都市型暴走行為を厳しく取り締まる「リポスト法」については、大部分をそのまま合憲と認めた。同じ日、リヨンでは県庁が、日曜日に予定されていた極右団体「Save Europe Act」の集会だけでなく、それに反対する市民団体の対抗デモまで禁止した。パリの行政裁判所は、ロシア人コラムニスト、クセニア・フェドロワ氏の国外退去命令に対する2度目の不服申し立てを退けた。そしてレンヌでは、LFI(服従しないフランス)所属の市議レジーヌ・コモコリ氏が、数カ月にわたる人種差別的な脅迫と車の損壊について被害届を出したというニュースが伝えられた。

一見バラバラなこれらの出来事は、実は同じ問いをめぐっている。国家は「安全」を理由に、誰の、どの自由を、どこまで制限できるのか。そしてその制限は、本当にすべての人に平等にかかっているのか。

未成年のSNS利用を制限しようとした法案は、子どもをネット上の害から守るという、一見誰も反対しにくい目的を掲げていた。それでも憲法評議会は「行き過ぎ」だと判断し、マクロン大統領は首相ルコルニュ氏に対し、2027年春までに新しい法案を作るよう指示した。つまりフランスの司法は、たとえ「子どもの保護」という強い大義があっても、表現の自由への制約が比例していなければ差し戻す、という姿勢を崩さなかったことになる。

ところが同じ憲法評議会は、フリーパーティー主催者に禁錮2年・罰金3万ユーロ、参加者にも禁錮6月・罰金7500ユーロを科す規定や、運転していなくても薬物の反復使用を理由に免許を停止できる規定を含む「リポスト法」については、大筋で問題なしとした。もちろん、火工品店の行政閉鎖や捜査官の一律仮名化など7つの規定は違憲として退けられており、司法が無条件に安全立法を追認したわけではない。それでも、未成年のネット利用という「静かな」自由と、フリーパーティーという「騒がしい」自由とで、司法が引く線の位置が違って見えるのは興味深い。どちらも「保護」を掲げた規制でありながら、一方は過剰とされ、一方はおおむね容認された。この落差自体が、何を「危険」とみなすかという社会の感覚を映し出しているように思える。

リヨンの集会禁止も、似た構図を持っている。県庁は、移民の「再移民」を掲げる極右団体の集会をまず禁止し、続けてそれに反対する市民団体側の対抗デモも禁止した。理由として挙げられたのは「極左勢力と極右勢力の間で、地域に繰り返し起きている暴力的な対立状況」だった。ここで留意したいのは、県庁の論理が特定の思想を狙い撃ちにしたものではなく、あくまで「衝突のリスク」を根拠にしている点だ。だが結果として、差別的な主張への異議申し立てそのものが、街頭からは締め出された。安全を守るための禁止が、対立する双方の声を等しく黙らせてしまう――この非対称のなさそうな対称性は、果たして中立と呼べるのだろうか。

フェドロワ氏のケースは、国境を越える自由という別の軸を照らす。ロシア国営テレビ局RT Franceの元社長で、ヴァンサン・ボロレ氏系のメディアに出演してきた同氏は、国外退去命令を不服として2度目の緊急審理を申し立てたが、パリ行政裁判所は「すでにフランスを出国している」ことを理由に緊急性を認めなかった。退去命令そのものの適法性を問う本案訴訟はまだ審理中であり、司法がこの問題に決着をつけたわけではない。それでも、資産凍結の一部解除を弁護士が県知事に求めているという事実からは、安全保障を理由にした措置が、生活の細部にまで及ぶ重さを持つことがうかがえる。

そしてレンヌのコモコリ氏の件は、国家による規制の話ではない。だが同じ枠組みの中に置くべき出来事だと思う。4月から続くモラルハラスメントの捜査、X上での人種差別的な侮辱、車の損壊、そして石を投げ込まれた隣人宅の窓――これらは、政治参加を続けようとする一人の市議に対して積み重ねられてきた圧力だ。同氏自身が「この暴力は私の生活に直接及び、私が公職を通常どおり務めることを徐々に妨げている」と述べている通り、これは国家が課す制限ではなく、社会の側から特定の立場の人間の政治参加を萎縮させる力学である。安全のための「制限」を国家の側からだけ見ていては、こうした見えにくい圧力を見落としてしまう。

フランスでこれらの出来事がどう受け止められているかを考えると、内相ローラン・ニュネ氏がリポスト法の合憲判断を「大きな前進だ」と歓迎した一方、社会党やLFIの議員たちが免許停止規定やフリーパーティー取り締まりの強化に異議を申し立てていたという構図が浮かぶ。つまりフランス社会の内部でも、「どこまでが安全のための正当な制限で、どこからが自由の過剰な侵害か」という線引きをめぐって、政治的立場によって評価が割れている。憲法評議会という第三者機関が、条文ごとに一つずつ比例性を審査し、時に政府の法案の一部を突き返すという仕組みがあること自体が、フランスの法文化の一つの特徴だと言えるだろう。

日本ではどうだろうか。集会や表現の自由は憲法で保障されているが、一般に、デモの実施にあたって警察や自治体との事前の届出・調整が実質的なハードルになりやすいと言われることがある。また、こうした調整の過程が可視化されにくく、司法が個別の規制の比例性を厳密に審査する場面も、フランスほど頻繁には注目されない傾向があるとされる。もちろん今回のニュースの中に日本の具体的な制度や事例が含まれているわけではないので、これはあくまで一般的な印象の域を出ない。それでも、「誰が集会を開けて、誰の対抗表現が制限されるか」という線引きを、どのくらい可視化された手続きの中で決めているかという点は、比較する価値のある問いだと思う。

アメリカについても、今回のニュースの中に具体的な事例は含まれていない。ただ、一般に言論の自由に対する憲法上の保護がフランスより強いとされる一方で、安全保障や移民をめぐる政治的分断がより激しいとも言われる。同じ「安全か自由か」という天秤でも、どちらの皿に重みを置くかは、国ごとの歴史的な経験によって形作られてきたのだろう。

これらの出来事から見えてくるのは、規制の是非を憲法裁判所や行政裁判所が個別に審査する仕組みそのものは機能している、ということだ。実際、SNS禁止案は差し戻され、リポスト法の一部条項も無効とされた。だが同時に、司法が扱えるのは「規則が憲法に適合するか」という問いまでであり、「誰がその規則を口実に脅されているか」「誰の声が対立回避の名の下に一緒くたに黙らされているか」という問いには、別の目が必要になる。今後、未成年保護やヘイト対策、移民管理を理由にした規制がさらに広がっていくとすれば、その規制が実際に誰の政治参加を萎縮させているのかを見える形にする仕組みが、司法審査と並んで重要になってくるはずだ。

安全を求める声は、多くの場合、誰かを守るために発せられる。しかしその「誰か」の輪の外側に、すでに声を上げにくくなっている人がいないか。あなたの街の集会やデモ、あるいはSNS上の言論をめぐる規制は、本当にすべての人に同じ重さでかかっているだろうか。

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