AntenneFrance

「保護」という言葉が守るのは誰か——フランスの夏に浮かび上がった三つの断層
社会

「保護」という言葉が守るのは誰か——フランスの夏に浮かび上がった三つの断層

2026/8/17

8月のある日、パリ近郊の空港で、ある男性を見かけたという読者からのメッセージが、調査報道メディア「メディアパルト」の記者のもとに次々と届いた。歌手で俳優のパトリック・ブリュエル。レイプや性的暴行など約10件の告訴を受け、司法当局への出頭義務を負い、国外への渡航を禁じられていたはずの人物だ。だが7月21日、予審判事は彼の申請を認め、司法監督の一部を緩和していた。彼はホテルでも、国外でも目撃されていた。

何が起きたのか、事実関係を整理しておきたい。ブリュエルは6月10日、4人の女性が訴えたレイプ・性的暴行・ハラスメントについて予審開始の決定を受け、別の4件では本人に有利な「補助証人」とされた。その後さらに少なくとも7件の告訴が加わり、メディアパルトの取材では約30人の女性が性的暴力を告発しているという。ブリュエル本人は容疑を一貫して否定している。渡航禁止の解除に対し、ナンテール検察当局はこれを「不当」「過度」として控訴し、ベルサイユ控訴院が9月16日に判断を示す予定だ。告訴した女性たちの弁護士コリーヌ・エルマンは、この決定が「声を上げる勇気を持ったすべての女性たちにとって、理解不能なメッセージ」だとRTLで批判した。

ここで問われているのは、単純な有罪・無罪の話ではない。予審段階にある人物にどこまでの自由を認めるかという、司法の「保護」の設計そのものだ。容疑者にも推定無罪の原則があり、渡航の自由は本来守られるべき権利である。だが、その原則を厳密に運用した結果が、被害を訴えた側には「司法が加害を疑われる側を守っている」ように映る——この非対称な体感こそが、フランスの世論を揺さぶっている部分だろう。

この非対称は、逆方向でも起きうる。ランド県では、ラザリスト会という130人の司祭を擁するカトリック系共同体に所属していたG神父に対し、2011年、2018年、2023年と3人の女性が性的暴行の被害届を出した。修道会は最終的に彼を除名したが、除名された聖職者は教区にも属さないまま、なお司祭を名乗り続けている。被害者の一人、27歳のレアはfranceinfoの取材に、教区の司教に手紙を書いてもなお「教区か修道会のどちらかに所属しなければならないはずなのに、彼は今や誰にも属していない」状態が放置されていると語った。教区側は「レアの手紙が届くまで誰も知らなかった」との立場を崩さず、検察当局は捜査中だとしか答えていない。レアはこの状況を「ピンポンのようなやり取り」と呼ぶ。誰も責任を引き受けない構造の中で、被害者が声を上げても、加害を疑われる人物への実効的な監視は宙に浮いたままになっている。

同じ「保護」という言葉が、ブリュエルの事件では容疑者側に手厚く働き、ランド県の事件では被害者側にまったく届いていない。この落差こそ、フランスの司法・宗教組織が世俗国家の枠組みの中でどう正統性を保つかという、古くて新しい問いを突きつけている。

この問いは、家庭というもっと私的な領域にも及ぶ。ルーマニアの映画監督クリスティアン・ムンジウが2026年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを再び手にした作品『フィヨルド』は、ノルウェーの村に移住した敬虔なキリスト教徒のルーマニア人一家を描く。教師たちが長女の体にあざを見つけたことをきっかけに、児童福祉当局は子どもたちを保護措置の対象とする。映画は前半、厳格な宗教教育を敷く一家に批判的な視線を向けながらも、後半では「進歩的」であるはずの地域社会が、自分たちと異なる価値観を前にすると不寛容さや人種差別的な態度を見せていく様を描く。ムンジウ監督はカンヌの記者会見で「私たちはグローバル化した世界に生きていると主張しているが、これほど分断されたことはかつてなかった」と語り、映画の役割を「自分の意見や価値観を問い直すよう促すこと」だと述べている。子どもを虐待から守るという名目の介入が、実は異なる共同体への不寛容を隠す装置になっていないか——この映画が投げかける疑問は、フィクションでありながら、フランス国内の現実の議論とも地続きに響く。

その現実の議論とは、15歳未満のソーシャルメディア利用禁止をめぐる攻防だ。フランスの憲法院は8月、この禁止を定めた法律を違憲として退けた。これを受け、与党ルネサンスの候補者ガブリエル・アタル氏は、修正法案を国民投票にかけるようマクロン大統領に求めた。アタル氏の主張はこうだ。「新たな立法手続きをゼロからやり直せば、施行までおそらく最長で2年かかる。その間、毎日平均1時間47分、150万人の子どもたちをアルゴリズムの餌食にしたままにすることになる」。彼はこの児童保護策を、憲法11条が定める国民投票の対象になりうる「社会政策」だと位置づけている。

ここでも構図は同じだ。子どもを守るための介入が、表現の自由や私生活の自由という憲法上の価値と衝突し、その調整を誰が、どんな手続きで行うかが争われている。憲法院という司法機関が「待った」をかけたのに対し、政治家は国民投票という直接民主制の手段でそれを乗り越えようとする。保護の正統性を、法の論理で担保するのか、民意で担保するのか——この選択自体が、フランスという国が個人の自由と国家の介入の境界線をどこに引くかという、憲法観の表れになっている。

日本ではこうした攻防が、フランスほど公然と、憲法上の権利の言葉で語られることは少ないかもしれない。児童虐待や性被害への対応が制度として強化される一方、家庭や学校、部活動、宗教団体といった閉じた空間の中で問題が可視化されにくいとはよく指摘される。誰が最初に気づき、誰が対応の責任を負うのかという線引きが曖昧なまま時間が過ぎてしまう、という構造は、ランド県のケースで教区と修道会と検察が互いに責任を押しつけ合った状況と、案外遠くない場所にあるのかもしれない。アメリカでは、保護を目的とした政策が親の権利や信教の自由への介入だと受け止められ、強い反発を招くことがあるとされる。ここで挙げた事例に米国発のものはないが、家族や信仰の領域に国家がどこまで踏み込めるかという線引きの難しさは、フランスの『フィヨルド』が描いた分断の構図と重なる部分があるだろう。

そして、この振れ幅の対極に置くべきなのが、アフガニスタンの現実だ。2021年8月にタリバンが政権を奪回してから5年、女性は11歳を超えると学校に通えず、大学進学も大半の職業も閉ざされている。タリバンの報道官は「女性は女性を必要とする分野、そしてイスラムが認める分野で働いている」と説明するが、これもまた「保護」の語彙で語られる統治の論理だ。地元メディアは、政権復帰後に女性の自殺率が急上昇したと報じている。秘密の学校に通う13歳の少女は「見つかれば、私たちや学校に何か起きるかもしれない。でも怖くても、勉強して学ぶために通い続ける」と語った。保護という名目が、自由をまるごと奪う道具に転じたとき、何が起きるかを、この5年間は示している。

ベルサイユ控訴院の判断は9月16日に出る。アタル氏の国民投票要求がどう扱われるかも、これからの政局次第だ。ランド県の捜査がどこに着地するかも分からない。だが今回並んだ事例をあらためて見渡すと、「保護」という言葉自体には善悪の値札がついていないことが分かる。それを誰が、どんな手続きで、誰の声を聞きながら運用するかによって、同じ言葉が正反対の結果を生む。

保護を語る制度が、当事者——被害を訴えた女性たちであれ、子どもたちであれ——の声を聞く仕組みを失ったとき、その保護はいったい誰のためのものになるのだろうか。

フランスメディアの関連記事