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斧で壊された教会の扉と、インド洋の島で配られる水――「受け入れる」とはどういうことか
社会

斧で壊された教会の扉と、インド洋の島で配られる水――「受け入れる」とはどういうことか

2026/8/24

斧を振り下ろす音を、ムサは30年経った今も覚えている。1996年8月23日、パリ18区のサン=ベルナール教会。子どもを含む300人を超える非正規滞在者が避難していたその扉を、治安部隊が破城槌と斧でたたき壊した。「彼らは人々を捕まえて地面を引きずりました。まるで動物のようでした」とムサはRFIに語っている。催涙ガスが撒かれ、占拠していた人々は路上に出されるか、収容施設へ移送された。世界中に配信されたこの映像は、フランスという国が自らの理念とどう向き合うかを問う出来事として記憶されてきた。

占拠は約8週間続いていた。主任司祭アンリ・コワンデの受け入れのもと、女性たちは教会で結婚式が行われる日には晴れ着に着替えて拍手で新郎新婦を迎え、近所の住民は洗濯機を貸し、子どもがいる家族の生活を支えた。排除が迫っていると知ると、数千人の市民が教会前に集まり手をつないで人の壁をつくった。長年この地区に暮らすベルナール・マセラは、CRSが扉を打ち破る一晩、コワンデ司祭がマイクでマーティン・ルーサー・キングの「私には夢がある」を朗読し続け、子どもたちを落ち着かせようとしていたことを覚えている。だが最後にはCRS隊員がそのマイクを奪った。「これが共和国の栄光だったとは、とても言えません」と彼は振り返る。

なぜこの30年前の出来事が、今なお語り直されるのか。非正規滞在者組織「コーディネーション75」のシソコは、サン=ベルナールを「非正規滞在者であっても人々が表に出ることを可能にした」出発点だと位置づける。労組ソリデールのヴィオレットは、雇用主が非正規滞在者の弱い立場を利用している現実を指摘しながら、当時の道をもう一度たどるよう呼びかけている。つまりこの記憶は過去の悲劇であると同時に、いまも続く正規化要求の根拠として使われ続けているということだ。フランスにおいて移民問題は、単なる国境管理の話ではなく、誰が「共和国」の中に居場所を持つのかという、市民社会と国家の間の未決着の問いなのだと言えるだろう。

フランスのもう一つの端――インド洋に浮かぶ海外県マヨットでは、2027年大統領選に向けた選挙活動の中で、まったく異なる角度から移民が語られている。同じく2027年大統領選候補で元首相のエドゥアール・フィリップは、サイクロン「チド」からの復興途上にあるこの島を訪れ、ライバルのジャン=リュック・メランションに現地視察を促した。フィリップが挙げたのは「水の配給」「学校教育の運営」「医療へのアクセス」という、パリの教会占拠とは対照的にきわめて具体的な生活インフラの逼迫だった。メランションは、海外領土での移民の「呼び水効果」を止めるという提案を「ばかげていて、挑発的」と切り捨てつつも、破壊された小さな島の受け入れ能力には「限界がある」ことは認め、移民の出発地であるコモロとの協議こそ必要だと主張した。2022年の大統領選でマリーヌ・ルペンが59%の票を得たこの地域をめぐり、大統領選の初期の論戦がすでに始まっている。

ここで見過ごされがちなのは、フィリップとメランションが実は正反対のことを言っているわけではないという点だ。フィリップは受け入れ能力の限界を「移民を止める理由」として語り、メランションは同じ限界を「コモロとの外交で解決すべき問題」として語っている。どちらも、マヨットの水道や学校が逼迫しているという事実そのものは否定していない。違うのは、その逼迫を誰の責任として、どんな対策に結びつけるかという政治的な物語の作り方だ。フィリップはその2日後、伝統的な首飾りを首にかけて路上で踊り、子どもに新学期の挨拶をし、サッカー観戦で歓声を上げていたと現地からの報道は伝えている。堅い印象を和らげようとするこの振る舞いは、移民問題を語る政治家が同時に「親しみやすさ」という別の資本も必要としていることを示しているのかもしれない――もっとも、これは記事から読み取れる解釈であり、フィリップ自身がそう意図したと明言しているわけではない。

この対立の構図を、日本の読者はどう眺めるべきだろうか。日本でも外国人労働者の受け入れは年々広がっているとされるが、一般に、その受け入れを支える自治体の水道・医療・教育といった具体的な負担や、外国人住民自身が地域社会の中で権利を主張する主体として扱われる場面は、議論の前面に出てきにくいと言われることが多い。マヨットの事例が示すのは、受け入れ能力の限界を語ることと、住民を排除の理由に利用することの間には、実は紙一重の距離しかないということだ。フィリップとメランションのどちらの立場を取るにせよ、この島の水や学校の逼迫という「事実」自体は解消されない。移民を締め出しても、コモロと対話しても、投資が伴わなければ島の生活は苦しいままだろう。

アメリカにおいても、移民の受け入れをめぐる議論では、連邦レベルの国境政策と、実際に移民を受け入れる自治体の財政・公共サービスの負担との間に緊張があるとしばしば言われる。ただし、その具体的な制度や事例について、今回のフランスの報道は何も語っていない。あくまで一般的な構図として、受け入れの是非を語る政治と、受け入れの現場を支える自治体という二つのレイヤーが乖離しがちだという点で、マヨットの状況と重なる部分があるように見える、という程度の指摘にとどめておきたい。

パリのサン=ベルナール教会とマヨットの逼迫する水道は、一見すると何の関係もない。片方は30年前の記憶であり、片方は今まさに進行中の選挙戦の争点だ。だが両者に共通するのは、「受け入れる」という行為が、理念の問題であると同時に、常に具体的な資源――住む場所、水、学校の教室、医療の順番待ち――の分配の問題でもあるという事実だ。教会を占拠した300人の家族に必要だったのは連帯の言葉だけでなく、洗濯機と食料と滞在許可証だった。マヨットの住民に必要なのは移民を巡る大統領選のスローガンだけでなく、壊れたインフラへの投資だ。移民政策だけを強化し、受け入れ地域への投資を伴わなければ、住民と移住者は限られた資源を奪い合う構図に押し込まれ、双方が政治的に対立させられていく。それは編集会議の分析が指摘する通りのリスクだろう。

では、地域サービスの不足という現実を、誰かを排除する理由にするのではなく、そこに暮らすすべての人の権利を保障する方向にどう結びつけ直せるのか。フランスの教会の扉も、インド洋の島の水道管も、その問いへの答えをまだ持っていない。日本の私たちが、外国人住民の増える自分の街を思い浮かべたとき、この問いはどれほど遠い話だろうか。

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