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年140ユーロの重み――フランスが問う「みんなで負担する」の中身
社会

年140ユーロの重み――フランスが問う「みんなで負担する」の中身

2026/8/25

薬局のレジで、処方箋の箱を受け取る。会計は保険でほとんどカバーされるはずなのに、なぜかレシートには数十サンチームが自己負担として残る。フランスに住んだことのある人なら見覚えのある光景だろう。この「医療自己負担額(franchise médicale)」という小さな負担の年間上限が、今年10月から100ユーロから140ユーロに引き上げられる。1年でならせば月1ユーロに満たない額だという。だが、この数字の裏側を覗くと、フランスという国が「社会保障を守る」と言うとき、実際には誰の財布から何を差し引くかをめぐる、かなり生々しい綱引きが進行していることが見えてくる。

政府は当初、この上限を200ユーロへと倍増させる案を検討していた。それが最終的に140ユーロに落ち着いたのは、協議を経た結果だと保健相のステファニー・リストは説明している。理由として挙げたのは、2026年の社会保障赤字が200億ユーロと見積もられていること、そして中東情勢の悪化がそれをさらに押し上げかねないということだ。「世界でも有数の社会保障を維持するには、努力を受け入れる必要がある」というのが彼女の言葉である。未成年者や妊婦、低所得者向けの補完的医療保険の受給者など約1,800万人は引き続き免除されるというから、負担が増えるのは主に、ある程度の医療アクセスを日常的に使える層ということになる。

興味深いのは、この措置が国民議会での審議を経ずに政令によって決められている点だ。ちょうど同じタイミングで、2027年度予算の審議日程が固まりつつある。9月末に予算法案が国民議会に提出され、10月12日から本審議、10月20日には社会保障財政法案の審議が始まり、11月17日に採決が予定されている。もっとも、これはまだ第一読会にすぎない。元老院との調整が難航すれば12月半ばまでもつれ込む可能性があり、しかも2027年は大統領選挙の年で通常会期が短縮される。首相のセバスチャン・ルコルニュが「予算の成立を選挙後まで待つのは、混乱を選ぶことだ」とまで書簡で警告しているのは、この日程がいかに綱渡りかを物語っている。

つまり、140ユーロという数字は、来るべき予算戦争の前哨戦なのだ。そしてこの前哨戦にはもう一方の当事者がいる。企業だ。経営者団体の連合体であるMedefの会長パトリック・マルタンは、2027年度予算を前に「企業にこれ以上、税や社会保険料の負担を求めるべきではない」と論説で釘を刺した。中小企業団体「企業家たち」の会長も、多くの小規模企業がすでに深刻な財務難にあると強調し、2025年には6万8,000件を超える企業が倒産したという数字を挙げている。フランスは現在4%を超える金利で国債を発行しており、これは2008年の金融危機以来の水準だという。政府は失業率の上昇と低成長のなかで、国民議会に過半数を持たないまま予算を組まねばならない。左派のジャン=リュック・メランションは、この予算を理由に政府を倒閣に追い込む構えをすでに見せている。

ここで見過ごされがちなのは、負担が家計や企業のバランスシートだけでなく、もっと見えにくい形でも払われているということだ。同じ時期に書店に並んだヤニック・エナエルの小説『教員の孤独は果てしない』は、1990年代のパリ郊外で教師として働いた自身の経験をもとに、過重労働と暴力、組織的支援の不足のなかで疲弊していく若い教師を描いている。財政上の「負担」が予算案の数字として現れる一方で、教育や医療という公共サービスを実際に支えているのは、疲弊し、孤独に耐える現場の人間だという事実が、この作品からは静かに滲み出てくる。社会保障を「守る」と誰かが言うとき、その言葉の外側で、すでに別の種類の負担がずっと払われ続けている。政府が政令で決める140ユーロと、教室で一人で立ち尽くす教師の疲労は、直接つながっているわけではない。だが同じ問い、つまり「公共サービスを維持するコストを、最終的に誰が肩代わりしているのか」という問いを、それぞれ違う角度から投げかけているように読める。

こうした構図は、フランス特有の緊張感を帯びている。フランスでは社会保険料と税を通じた手厚い保護を「普遍的な権利」として維持することが強く支持されてきた。実際、医療自己負担額の上限が2005年に100ユーロと設定されて以来、今回が初めての引き上げだという事実そのものが、この上限がいかに「触ってはいけないもの」として扱われてきたかを物語っている。今回の引き上げも、政府はあえて「増税」ではなく「インフレへの連動」という言葉を選んで説明している。負担を求めるときでさえ、それが権利の後退ではないという体裁を保とうとする姿勢が透けて見える。

日本の読者にとって、この構図はどこか馴染み深く、どこか異質でもあるだろう。日本でも社会保障をめぐる議論は続いているが、一般には高齢化に伴う社会保険料負担の増加が中心的な争点とされ、世代間の公平、つまり現役世代と高齢世代のあいだで負担と給付をどう分け合うかが強く意識される傾向にあると言われる。フランスの議論が「企業か、富裕層か、利用者本人か」という水平的な負担の配分をめぐって展開しているのに対し、日本の議論はしばしば「今の世代か、次の世代か」という垂直的な軸で語られやすい、という違いがあるように見える。どちらが正しいという話ではなく、同じ「社会保障をどう支えるか」という問いでも、社会がどの軸で対立を認識するかが違う、ということなのかもしれない。

アメリカに目を向ければ、また別の風景が広がる。雇用主が提供する保険や民間保険への依存度が大きいとされる制度のもとでは、そもそも「国全体で負担を分け合う」という発想自体が、フランスや日本ほど自明ではない。保障の格差がすでに制度設計の出発点に組み込まれている、という構造は、フランスが未成年者や妊婦、低所得者などおよそ1,800万人を免除としながらも、それ以外の人々には共通の上限ルールを適用するという発想とは対照的に映る。フランスの政府が140ユーロという小さな引き上げにこれほど慎重な説明を尽くすのも、社会保障が「共通のルールの下にある」という前提のもとで機能してきたからこそ、と考えると腑に落ちる部分がある。

この先、10月から11月にかけての予算審議は、単なる数字のやり取りでは済まないだろう。企業は追加負担を拒み、左派は倒閣も辞さない構えを見せ、政府は借入コストの上昇と赤字圧力に挟まれている。燃料支援やエネルギー小切手の延長が検討されているのも、低所得層への配慮を最後まで手放せないという事情の表れだろう。予算が成立するのか、政令という形で押し切られる部分がさらに増えるのか、それとも政権そのものが持ちこたえられないのか。数字の攻防の先に、政治の攻防が待っている。

「全員の努力が必要だ」と政府は言う。しかしその「全員」の中身は、月1ユーロの負担増を受け入れる患者であり、これ以上の課税を拒む企業であり、孤独に耐えながら教壇に立ち続ける教師であり、それぞれまったく違う立場にいる。負担能力の違いを、制度はどこまで反映すべきなのだろうか。もしあなたが予算を組む側だったら、この「全員」の中に、誰の分をどれだけ多く数えるだろうか。

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