
水道の蛇口とサケの養殖場、そして届かなかった6億ユーロ――公共サービスは誰のものか
2026/8/27
蛇口をひねれば水が出る。車を停めれば駐車場がある。フランス北部、ブローニュ=シュル=メールの住民にとって、それはごく当たり前の日常だったはずだ。ところがいま、その水道契約と駐車場契約が、パリの国家金融検察局(PNF)への告発の対象になっている。反汚職団体AC!!が問題視しているのは、大手企業Veoliaとの水道契約が2021年、競争入札を経ないまま5年間延長されたことだ。表向きの理由は、地元で計画されていたサケ養殖場のために水の生産量を増やす投資が必要だったから、とされる。だがその養殖場計画は2022年3月に正式に中止された。にもかかわらず、契約延長を取り消す決議は一度も行われていない。「Veoliaの利益になる独占状態が維持されている」と、AC!!のPatrick Dupont氏は述べている。
もう一件、ブローニュ=シュル=メールの水族館「ナウシカア」に隣接する駐車場をめぐっては、運営会社Q-Parkに930万ユーロの補償金が支払われたことが問題視されている。新型コロナ流行期に利用者が伸びなかったことへの補填だというが、地域会計検査院はすでにこの金額を疑問視していた。ブローニュ都市圏の議長Frédéric Cuvillierは、告発内容を「根拠のない虚偽」だと切り捨てている。真偽は今後の捜査を待つほかないが、ここで注目したいのは告発の中身そのものより、この構図が浮かび上がらせるものだ。水も駐車場も、住民の生活に直結する公共サービスでありながら、その運営は民間企業に委ねられ、契約の中身や金額の妥当性を検証するのは会計検査院や反汚職団体という「外部の目」に頼らざるを得ない。議会や首長が直接その是非を住民に説明する回路は、思いのほか細い。
この「委ねる」という発想は、フランスでは水道や駐車場に限った話ではない。政府が大企業に課している法人税の追加課税を、来年も継続するかどうかが議論になっている最中、Medefの会長Patrick Martin氏は「企業はすでに痛みの限界に達している」と訴えた。1年限りだったはずの課税が2年、3年と続けば、国家への不信が生まれる、と彼は言う。これは一見、水道契約とは無関係な話に見える。しかし両者に通底しているのは、「誰が公共の負担を引き受け、誰がその配分を決めるのか」という同じ問いだ。国家が財源を大企業に求める場面では、企業側が「約束が守られない」と国家の信頼性を問う。逆に自治体が公共サービスを民間に委ねる場面では、住民や監視団体が「契約の透明性が守られない」と自治体の信頼性を問う。フランスの公共性をめぐる摩擦は、この双方向で同時に起きている。
さらに視点を海外県マヨットに移すと、問題はまったく別の形で現れる。サイクロン「チド」の被害から1年半余りが過ぎたいまも、復興は遅れたままだ。セバスチャン・ルコルニュ首相は8月26日から2日間の日程でマヨットを訪問したが、追加の資金は持参しなかった。政府は2026年に6億7400万ユーロの投資を約束していたが、実際に支出されたのはわずか5400万ユーロにとどまる。マムズー市長は「私たちに足りないのは資金です」と訴え、シロンギ市長は下水処理設備も街灯もない現状を証言した。首相の訪問に合わせて労働組合が抗議デモを計画し、機動憲兵隊が共和国広場から抗議者を実力で排除する場面もあった。ここで問われているのは民間委託の透明性ではなく、国家が直接約束したはずの公的資金が、なぜ現場まで届かないのかという、もっと根本的な問題である。首相自身、予算成立の遅れが一因だと説明しつつも、「それですべてを説明できるわけではない」と認めている。
民間に委ねれば契約の不透明さが問われ、国家が直接担えば執行の遅さが問われる。フランスが抱えるこの二つの摩擦は、実は同じコインの裏表なのかもしれない。誰が公共サービスの担い手であっても、資金の流れと決定の過程を住民が検証できる回路がなければ、信頼は容易にすり減っていく。
日本ではどうだろうか。公共施設の運営を民間事業者に委ねる指定管理者制度は各地に広がっているが、自治体の財政制約が強まるなかで、契約内容の透明性や住民参加の仕組みが十分に機能しているとは限らない、とされることが多い。ブローニュのケースのように、外部の監視団体が契約の妥当性を検証し、検察に告発するという回路が日本でどれほど機能しているか、比較する価値はあるだろう。
一方、アメリカでは公共的な役割を慈善や企業の資金が補う場面が大きい、という傾向がしばしば語られる。歌手ドリー・パートンの死去をめぐる報道は、その一つの実例を示している。テネシー州シービアビルの住民は、彼女を単なるスターではなく「故郷に恩を返した慈善家」として悼んだ。1986年に開設した遊園地ドリーウッドは現在4,000人以上を雇用し、彼女の財団は世界各地の幼い子どもに毎月本を届けるプログラムを運営している。ある住民は「地域で何か問題が起きたら、彼女に電話すれば与えてくれた」と語る。これは美しい話だ。しかし裏を返せば、その支援がどこまで届くかは、一人の篤志家の判断と寿命に左右されていたということでもある。ドリー・パートンが亡くなったいま、ドリーウッドの雇用や読書プログラムの将来を、誰がどう引き継ぐのかは、この記事の材料だけでは分からない。ここで見過ごされがちなのは、慈善による公共の穴埋めが、時に美談として語られるあまり、「本来なら誰が担うべきだったのか」という問いを覆い隠してしまう点ではないだろうか。
フランスでは緊縮財政と復興需要が同時に重なっている。大企業への課税は延長されるかもしれず、マヨットの復興資金は執行が追いつかず、ブローニュのような地方都市では契約の妥当性が検察の場に持ち込まれている。公共サービスを市場に委ねる範囲をどこまで広げるか、その契約をどう検証するか、そして住民がどこに異議を申し立てられるか——この三つの問いへの答え方が、今後の社会的信頼を左右していくことになるだろう。
もし水道や駐車場の運営が民間企業に委ねられ、被災地の復興資金が民間の善意や企業の投資に頼らざるを得ないとしたら、私たちはその決定に対して、いったい誰に説明を求めればいいのだろうか。あなたの街の公共サービスは、いま誰が担っているだろうか。