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出生休暇と、語られなかった父の物語——ケアは誰のために可視化されるのか
社会

出生休暇と、語られなかった父の物語——ケアは誰のために可視化されるのか

2026/8/31

4月末、39歳の医師エマニュエルは3人目の子どもの母親になった。妻のマルレーヌが出産した末娘のために、エマニュエルは2カ月間の追加休暇を取った。「仕事に追われることなく、私たちが持っていたエネルギーを家族と子どもに注ぐことができました」。職場復帰を数日後に控えて、彼女はそう語っている。

この2カ月は、フランスで7月1日から始まった新しい「出生休暇(congé de naissance)」によるものだ。子どもが生まれた各親は、母親・父親・養親のための既存の休暇に加えて、1人につき最大2カ月、給与の70%(その後60%)の補償を受けながら休めるようになった。8月23日時点で、11万人の親が疾病保険金庫にこの休暇を申請している。政府はこれを「人口再武装」の手段と位置づけ、男女平等の強化と子どもの健全な発達を目的に掲げる。

興味深いのは、この制度が単なる「休み」ではなく、家庭内の力関係を変える装置として語られている点だ。SNCFで運転・運行管理職を務めるステファンは、パートナーと1月生まれの息子とともに8月を育児休暇で過ごし、「最初はとても不安でしたが、今では交代で息子を入浴させています」と話す。企業経営者のファビアンも「2カ月以上、息子と2人だけで過ごしたので自信がつきました」と振り返る。子どもの世話を「手伝う」のではなく、対等な当事者として引き受ける経験——それが、この休暇が可視化しようとしているものだ。

もっとも、フランス国内でもこの制度への評価は一様ではない。給与の70%、その後60%という補償水準は、賃金の低い層ほど利用をためらわせる。男女間の賃金格差がある以上、「どちらが休むか」という選択は、しばしば経済合理性の名のもとに母親へと偏っていく。社会学者ロマン・ドゥレは、休暇が義務ではなく任意である限り、「母親が新生児の世話をし、父親は皿を洗う」という分担が温存されやすいと指摘する。手本としてしばしば参照されるスウェーデンでは、親が合計480日を分けて取得でき、そのうち90日は各親に割り当てられ、使わなければ失われる仕組みだという。フランスの制度は、父親が子どもと2人きりで休暇を取ることを可能にしはしたが、それを強制する仕組みは持たない。可視化はしたが、義務化はしていない——この中途半端さが、「大きな恩恵」と「不平等な制度」という二つの評価を同時に生んでいる。

ここで少し視点を変えたい。同じ時期、フランスの文化面では、作家アレクサンドリーヌ・デコートが初の長編小説『Le Nénuphar』を発表した。重い、しかし外見からは分からない奇形を持って生まれ、当時のフランスでは治療できずに米国で手術を受けた父親の人生を描いた作品だ。デコートは祖父母から断片的に聞いた事実をもとに、約10年をかけてこの物語を書き上げた。「家族がひたすら隠し続けてきたことを、世間に語ってもいいのだろうか」——この問いが、執筆全体を貫いていたという。

出生休暇のニュースと、この小説は一見無関係に見える。しかし両者は同じ問いの表と裏なのではないか、と私は思う。すなわち、身体やケアにまつわる事情を「私的な恥」として黙っておくか、それとも社会が受け止めるべき条件として語り直すか、という問いだ。デコートの父の障害は「外からは分からない」がゆえに長く沈黙のうちにあった。出生休暇を取る親たちの育児の負担も、職場では長らく「個人の事情」として処理され、キャリアに響かないよう本人が調整するものとされてきた。デコートが目指したのは、恥を誇りに転じることだった。出生休暇が目指すのも、突き詰めれば同じ転換——ケアを恥ずかしいものから、堂々と申告できる社会参加の条件へと変えることではないか。

この視点から日本を眺めると、制度の骨格自体はフランスと大きく違わないように見える。育児休業や時短勤務は年々拡充されてきたとされ、取得を促す企業も増えているといわれる。しかし課題として指摘されることが多いのは、制度があることと、それを実際に不利益なく使えることの間の距離だ。復帰後の評価や昇進への影響を懸念して取得をためらう、あるいは取得しても「迷惑をかけた」という感覚が拭えない、といった声は一般によく語られる。フランスの出生休暇をめぐる報道が示すのも、まさにこの距離である。制度が「ある」ことと、賃金格差や雇用形態に関わらず誰もが「使える」ことは別の話なのだ。

米国については、家族形成やケアへの支援が雇用主の方針や個人の所得水準に左右されやすい、とされることが多い。国が一律の休暇制度を敷くというより、企業ごと、職種ごとに手厚さが大きく異なる構造だと一般に言われる。これに対してフランスの試みは、たとえ不完全であっても、国の制度としてケアの時間を保障しようとする点で異なる方向を向いている。ケアを個人の交渉力や雇用主の裁量に委ねるか、社会全体で引き受ける条件として設計するか——この差は、単なる政策の違いというより、「何のために国家があるのか」という発想の違いを映しているように見える。

では、これからどうなるのか。フランスの出生休暇は始まったばかりで、11万人という申請数が今後どこまで広がるかは未知数だ。焦点になるのは、低所得の親や非正規雇用の親が、賃金補償の目減りを理由に取得を諦めていないかという点だろう。制度を「使える人」と「使えない人」の分断が固定化すれば、この休暇は結局のところ、すでに時間的・経済的余裕のある層のための恩恵で終わってしまう。デコートの父の物語が「語るのにふさわしい時が来た」と確信されるまでに一世代を要したように、ケアを堂々と申告できる社会になるまでには、まだ時間がかかるのかもしれない。

身体の事情、家族の事情、ケアの必要——それを申告しても不利益を受けない社会参加の条件とは、あなたの職場や暮らしの中で、すでに存在しているだろうか。それとも、まだ沈黙の中に置かれたままだろうか。

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