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国旗を掲げる自由、ベールを脱がせる自由——「公共秩序」という言葉が覆い隠すもの
社会

国旗を掲げる自由、ベールを脱がせる自由——「公共秩序」という言葉が覆い隠すもの

2026/9/1

南仏ニースの校庭に、旗ざおが立てられていく。幼稚園から高校まで、市内150校。毎週一度、子どもたちはフランス国旗の掲揚とともに「ラ・マルセイエーズ」を歌うことになるはずだった——市長エリック・チオッティ氏がそう発表したのが8月28日のことだ。ところがわずか3日後、国民教育相エドゥアール・ジェフレ氏はこの構想を退けた。「学校で何が行われるかを決めるのは市長ではない」。国民教育省という名称には「国民」という言葉が入っている、だから枠組みを定めるのは国であって自治体ではない、というのがその理由だった。

一見、これは地方自治と中央集権のありふれた綱引きに見える。だが同じ週、フランス政治のもう一つの場所では、正反対の方向を向いた「国家による強制」が議論されていた。国民連合(RN)が、2027年の大統領選挙でマリーヌ・ルペン氏が勝利した場合、公共空間でのベール着用を禁止する法律を国民投票にかけると報じられたのだ。国旗を掲げさせる自由は国が独占し、ベールを脱がせる自由もまた国が行使しようとする。この二つのニュースを並べてみると、フランスという国が「公共空間で何を見せ、何を見せないか」に驚くほど強いこだわりを持っていることが見えてくる。

国民投票という手法が選ばれた理由は、単なる政治的パフォーマンスではない。RN関係者によれば、これは憲法院を「乗り越える」ための戦略だという。憲法院は1962年、ド・ゴールが実施した国民投票をめぐって、国民投票で成立する法律は「国民主権の直接的な表現」であり自らの審査対象にならないとの判断を示した。つまり、通常の立法手続きであれば違憲とされかねないベール禁止法も、国民投票という形式を取れば司法審査を迂回できる可能性がある。党首ジョルダン・バルデラ氏は「この措置を取るかどうかを、国民投票を通じてフランス国民が決めることになる」と述べ、罰則についてはブルカ禁止法を参考に150ユーロの反則金という案も検討されているという。

この提案に、保守系の共和党(LR)に所属するヴァレリー・ペクレス氏は「扇動的で実行不可能」と切り捨てた。興味深いのは、ペクレス氏自身がベールを「宗教的な標章であり、女性の従属を示すもの」と捉えている点だ。つまり彼女はベールを肯定的に評価しているわけではない。それでも「成人女性は、自分が選んだ宗教を信じるか信じないかを自由に決められる」という一線は譲らない。学校やスポーツの場で少女を保護することと、成人女性の着るものを国家が一律に取り締まることは別問題だ、という切り分けである。さらに彼女は、RNの創設者ジャン=マリー・ルペン氏がかつてブルカ禁止に賛成していなかったことを指摘し、「RNはしばしば意見を変える」と皮肉った。ここで示されているのは、フランスの右派の中でさえ、ライシテ(政教分離)と個人の自由をどう両立させるかについて一枚岩ではないという事実だ。

こうした議論がフランス社会で繰り返し燃え上がるのは、この国が「見えるもの」を公共空間の秩序の核心に据えてきた歴史を持つからだろう、という見方もできる。もっとも、これは筆者の解釈であり、ニュース自体が述べていることではない。ただ、ニースの旗ざおとRNのベール禁止案が同じ週に並んで報じられたという事実は、フランスにおいて「公共空間に何を見せるか」が政治的争点になりやすい土壌を映し出しているように思える。

では日本はどうか。日本では、宗教的な装いが国家レベルの規制対象として議論されることは一般に少ないとされる。ただしそれは自由が徹底しているからというより、そもそも可視化された少数者が少ない、あるいは同調圧力によって少数者の存在そのものが目立たない形に抑え込まれやすいからだ、と指摘されることもある。国家が法律で規制する代わりに、社会そのものが「浮かないこと」を求める――規制の形は違っても、結果として少数者の可視性が制約されるという点では、フランスと無縁の構図とは言い切れないのかもしれない。

一方、米国では一般に信教の自由の保護が強い国とされる。国家が特定の宗教的装いを一律に禁止するという発想自体が、フランスほど政治の中心的争点にはなりにくいと言われる。ただしその分、対立が学校教育や地域政治といった別の場所で先鋭化しやすいとも指摘される。つまり、国家が正面から「禁止する」形を取らない代わりに、コミュニティ単位での摩擦として現れる、ということだ。フランスが中央集権的に「公共秩序」を法律で定義しようとするのに対し、米国ではその線引きが分散し、あちこちで局地的な衝突を生む――そんな対照が浮かび上がる。

この構図をさらに広げて考えると、「公共秩序」を掲げて何を制限するかという問題は、フランス一国の宗教論争にとどまらない射程を持っているようにも見える。今回集まったニュースの中には、直接ベールやライシテとは関係のない出来事も含まれていた。たとえば、洪水被害をめぐって公式発表と異なる情報を拡散したとして罰せられた人々のニュースは、情報の「見え方」を国家が一元的に管理しようとする別の事例だ。あるいは、占領地で入植者からパレスチナ人を守ろうとしていたとされる活動家が拘束され国外退去に至った出来事は、誰の身体的安全が保護され、誰の異議申し立てが「騒乱」として処理されるかという線引きの問題を提起している。これらは国も背景もまったく異なる出来事だが、「公共秩序」や「秩序の維持」という言葉が、実際には誰の不安を優先し、誰の自由を後回しにするかを決める装置として機能しうる、という点で緩やかに響き合っているように筆者には感じられる。

2027年の大統領選に向けて、RNのベール禁止案が実際に国民投票の争点になるかどうかはまだ分からない。ジェフレ氏がニースの構想を拒んだように、国民投票という手法もまた、憲法院や世論の反発によって形を変えていく可能性がある。ただ、いずれの議論も「学校で何を教え、公共空間で何を身につけてよいか」という、国家が個人の身体や信仰にどこまで介入できるかという根本的な問いを避けて通れない。

公共空間の秩序は、本当に「見えなくすること」でしか保てないのだろうか。それとも、多様な装いや信仰が同じ場所に共存すること自体が、秩序の一つの形なのだろうか。あなたが毎日通る駅や学校の校庭で、もし同じ問いが投げかけられたら、何を基準に線を引くだろうか。

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