
申請書を書ける人だけが助けられる、という国のかたち
2026/9/4
リール大学は今年の新学期から、生理痛に悩む女子学生が年間14日、月2日まで、授業を自己申告だけで休める制度を導入する。必要なのは48時間以内のオンライン申告だけで、診断書はいらない。大学側はこれを「学生への信頼と責任に基づいた」制度だと説明している。慢性的な片頭痛や、近親者の死、暴力、個人的な緊急事態にも使えるという。
一見、とても進歩的な話に聞こえる。医療機関に行って診断書をもらう手間を省き、学生の自己申告を信頼する――たしかにそうだ。しかし、この制度にも一つの前提が隠れている。「自分がその制度の対象であることを知っていて、48時間以内に、正しい窓口で、正しい言葉で申告できる」という前提だ。制度は存在するだけでは意味を持たない。使われて初めて意味を持つ。そしてこの夏から秋にかけてフランスで報じられたいくつかのニュースは、まさに「制度はあるのに、届いていない」という同じ構造を、教育・住宅・地域という異なる場所で繰り返し映し出している。
まず数字から見てみよう。CSAとCofidisの調査によれば、2026年の新学期にフランスの1世帯が支払う費用は平均488ユーロで、前年より79ユーロ増えた。この負担を軽くするための制度は実はかなり充実している。新学期手当は子どもの学年に応じて426〜466ユーロ支給されるし、中学・高校には社会基金があり、スポーツ活動にはPass Sportという50ユーロの補助まである。地域によってはノートパソコンの支給や交通費の補助まで用意されている。
ところが、フランスでは社会給付の受給資格がある人の3人に1人が申請していないとされる。しかも、給食費のように「申請しなければ最も高い料金が自動的に適用される」仕組みまである。つまり、この制度の設計は「困っている人が自分で声を上げる」ことを前提にしていて、声を上げられない人、あるいは制度の存在自体を知らない人は、静かに割高な料金を払い続けることになる。全国家族手当金庫がここ数日になってようやく保護者向けガイドをウェブサイトに掲載したという事実自体が、この情報の非対称性の証拠だろう。
この「知っている人だけが得をする」という構造は、住まいの問題ではさらに露骨な形をとる。パリ市の住宅担当副市長ジャック・ボドリエによれば、家賃規制の対象都市では賃貸広告の約4割が法定上限を超えており、パリでは46%に達する。制度はある。上限は法律で決まっている。しかし、それを守らせる力が追いついていない。ボドリエは、この悪化の一因を「制度の将来をめぐる不確実性」に求めている。家賃規制が11月26日で終わるかもしれないという観測が広がったことで、一部の家主が上限を無視し始めたというのだ。ルールを破っても罰せられないかもしれないという空気そのものが、制度を骨抜きにしてしまう。10月21日から上院で審議入りする延長法案が、この空気をどう変えるかが焦点になる。
住宅の問題は、学生の生活にも直接のしわ寄せを及ぼしている。トゥールーズでは学生生活費がこの1年で3.25%上昇し、学生向けアパートの平均家賃は558ユーロに達した。学生団体UNEFやAGEMPによれば、公的な学生寮(CROUS住宅)はトゥールーズに12万人の学生がいるのに対してわずか1万戸しかない。奨学金を受給している修士課程の学生ルナは「奨学金だけでは家賃を払えない」と語り、CROUSの部屋が見つからず片道通学を続けている学生もいる。ここには、公的支援があっても市場価格がそれを上回ってしまえば、支援そのものが「足りない」という単純だが根深い問題がある。しかもEU域外出身の学生の場合、住宅手当の廃止や滞在許可証費用の倍増などが重なり、新学期費用は6,843.76ユーロにまで跳ね上がるという。同じ「学生」という立場でも、出身や国籍によってアクセスの条件がまったく違う。
そして、そもそも「申請する窓口」自体が消えてしまう場合もある。コート=ダルモール県の小さな村ロカルンでは、児童数が30人から25人に減ったことを理由に、2学級あった小学校の1学級が閉鎖された。人口500人、住民の半数が60歳を超えるこの村にとって、学校は単なる教育施設ではなく、若い世帯をつなぎとめる最後の砦だった。村長は空き家を改修して新しい家族を呼び込もうとし、実際に4歳の双子を連れた母親の転入という朗報もあった。それでも教育当局の決定は覆らなかった。村長は「私たちへの罰は、声を上げずに消えていくことだ」と述べている。フランスでは毎年平均400校が学校地図から消え、2026年度に削減される教員ポストは前年の10倍にあたる約4,000に上るという。ここでは、制度の使いにくさ以前に、制度そのもの――学校という選択肢――が地理的に失われていく。申請能力の話ですらない。そこに「ある」か「ない」かの話だ。
こう並べてみると、この5つのニュースは別々の分野の出来事でありながら、同じ問いを別の角度から投げかけていることが分かる。フランスという国は、教育も医療も住宅も「万人に開かれているべきだ」という建前を強く掲げてきた社会だ。生理休暇の自己申告制度が「信頼」を掲げるのも、家賃規制が市場価格に上限をはめようとするのも、その延長線上にある発想だろう。しかし建前と実際の間には、情報を知っているか、申請の手続きをこなせるか、近くに学校や住宅があるか、市場価格を払えるかという、いくつもの見えない関門が挟まっている。制度の設計者が「平等」を目指せば目指すほど、その制度を使いこなすための手続き的な能力の差が、新しい不平等として立ち上がってくる――これは筆者の見立てだが、この一連のニュースを貫く軸として捉えると腑に落ちる。
日本の読者にとって、この構図はどこか既視感があるのではないだろうか。日本の社会保障や教育支援も申請主義が強く、支援を必要とする人ほど制度の存在を知らずに漏れてしまう、という課題が指摘されることが多い。家族が情報収集や手続きを肩代わりできる世帯とそうでない世帯の差が、結果としてアクセスの差になるとも言われる。一方でアメリカのような社会では、一般に市場所得や保険の有無が教育・医療・住宅の格差をより直接的に決めやすいとされる。フランスの場合は、制度の建前としての普遍性は強いのに、その普遍性を現場で実現するための「翻訳」――情報提供、申請支援、地域ごとの供給――が追いついていない、というのが今回のニュース群から見えてくる姿だ。
この先、パリでは10月21日からの上院審議で家賃規制の延長が決まるかどうかが注目される。ロカルンのような農村の学校については、閉鎖対象となった学校の10校に1校は最終的に免れるとされており、来年以降も同様の攻防が各地で続くだろう。学生生活費の高騰と公的住宅の不足という組み合わせが変わらなければ、トゥールーズのような都市で「奨学金はあるのに生活できない」学生はさらに増えるかもしれない。
支援を申請できる能力、情報にアクセスできる能力、そして声を上げ続けられる体力まで含めて、それを「個人の責任」とみなしてよいのだろうか。制度がそこにあることと、その制度が実際に自分の手に届くことの間には、思っている以上に大きな距離があるのかもしれない。