AntenneFrance

「もう子どもを抱きしめてよいのか分からない」——沈黙を防ぐ制度は、現場の迷いから始まる
社会

「もう子どもを抱きしめてよいのか分からない」——沈黙を防ぐ制度は、現場の迷いから始まる

2026/9/5

パリ20区のテレグラフ幼稚園。約15人の学童保育職員がテーブルを囲み、責任者から一つの問いを投げかけられる。「マティスが入学し、昼食時間の保育に初めて来ました。泣いていて、どうしてもあなたの腕に抱かれたがっています。あなたはどう反応しますか」。

ありふれた光景に見える。だが20年この仕事を続けてきたマリアという職員は、こう漏らす。「今起きていることを考えると、もう子どもを抱きしめてよいのかどうかも分かりません」。彼女を戸惑わせている「今起きていること」とは何か。それを辿ると、パリという街が2015年から抱え続けてきた、ある種の制度的な沈黙にぶつかる。

17の家族が告訴に踏み切るまで

パリ市の放課後活動、いわゆる学童保育をめぐって、17の家族が子どもへの暴力や性的侵害を訴え、パリ市と現職・前職の市長を相手取って告訴する準備を進めている。家族側の弁護士マキシム・ドゥラカルトは、パリ市役所が「少なくとも2015年から」問題を把握していたと主張する。同年、市の監察総監部はすでに50項目にのぼる対策を提案していたが、市は「何もしなかった」というのが弁護士の見立てだ。

この告訴が対象とするのは、市長エマニュエル・グレゴワール、前市長アンヌ・イダルゴ、そして当時学校問題を担当していたパトリック・ブロシュである。グレゴワール氏側は「就任以来、課外活動における子どもの保護と安全確保に全面的に取り組んできた」としつつ、「司法に全面的に協力する」と受け止めを示した。ここで注目したいのは、この告訴が個人の悪意を裁こうとしているのではなく、「一連の兆候と行動」——つまり情報が上がってきていたにもかかわらず組織として動かなかった構造——を問おうとしている点だ。弁護士自身が「告訴は開かれたものであり、検察官は自由に捜査を進めることができる」と述べているのも、個人の断罪より制度の検証を意図していることを示唆している。

2026年初め以降、パリ市はすでに132人の指導員を停職処分にしており、そのうち52人は性的または性差別的な暴力の疑いによるものだ。首都の小学校、保育所、学童保育の現場では200件を超える刑事捜査が進んでいる。この数字の大きさは、放置されていた期間の長さと表裏一体だと考えられる。

「告訴を思いとどまるよう促された」という一文の重さ

沈黙の構造は、パリの学童保育に限った話ではない。ジェール県で起きたリハナさんの殺人事件では、主な容疑者ジェローム・バレラに対し、13歳だった少女への性的誘引を理由とする新たな告訴が9月に提出された。少女とその母親は、リハナさんの死後にすでに情報提供をしており、7月には国家憲兵隊から事情聴取のため呼び出されていた。ところが母親の説明によれば、憲兵隊員から告訴を思いとどまるよう促されたという。「事態を非常に深刻に受け止めてくれると思っていました。でも、結局は違いました」と母親は語っている。

この事情聴取が行われた時点で、バレラの監督・追跡をめぐる司法上の重大な機能不全を指摘する監察報告書は、すでに公表されていた。つまり、制度の欠陥が公式に認められた後でさえ、現場では「告訴を思いとどまるよう促す」という判断が働きうる。国家憲兵隊はfranceinfoに対し事情聴取の事実は認めたものの、それ以上の説明は避け、オシュ検察局は取材に回答していない。ここで見過ごされがちなのは、通報を思いとどまらせる力学は、悪意ある個人の判断というより、「事を荒立てたくない」という組織文化の慣性として働きやすいという点だ。パリの学童保育の事例と重ね合わせると、被害の申告が上がってきた瞬間にそれをどう扱うかという、まさにその接点にこそ制度の強さが試されていることが見えてくる。

教皇が拒んだ「数分間」

沈黙をめぐる問題は、行政や司法の外側、宗教組織にも及ぶ。ノートルダム・ド・ベタラムの元生徒200人以上でつくる被害者団体は、教皇レオン14世がルルドを訪れる際に代表団との面会を拒否したことを「深い落胆とともに受け止める」と発表した。団体が求めていたのは、祈りと祝福、そして被害者の保護・救済・再発防止に関する5つの提案を手渡すための「数分間」だけだったという。

フランス司教協議会は、教皇が代わりに教会内の性的暴力の被害者7人と面会すると説明し、選考は被害の状況や地域、団体所属の有無など複数の基準に基づいたとしている。司教協議会自身も「この回答がどれほど失望を招きうるか」を理解していると述べている点は興味深い。制度が公平性や代表性を配慮すればするほど、特定の被害者団体からは「私たちが求めていたのは特権ではなく面会だった」という反応が返ってくる。ベタラム団体が「何十年もの沈黙の後、自分たちの声を聞かせるために闘わなければならなかった後で」と述べているのは、被害者にとって「誰と会うか」という選定の手続きそのものが、かつての沈黙の記憶と地続きに感じられることを示しているのではないか。

抱きしめることと、通報すること

こうした沈黙への反省を受けて、パリ市は総額2000万ユーロの対策計画を導入し、学童保育に関わる全職員に年間6日間の研修を課している。研修が示す勧告は、子どもを決して突き放さず、会話や本の読み聞かせなど代替策を探ることを求め、指導員が子どもを抱きしめた場合は上司に報告するよう定めている。男性職員の昼寝室への立ち入り禁止という追加措置も導入されたが、18歳の職員ガブリエルが「男性はみな少し危険だという意味になる」と感じる一方、25歳のアリスは「行き過ぎであり、差別の一種だ」と語るなど、現場の受け止めは割れている。学童保育の責任者サンドリーヌ・ボバンは、「共通の手続きが必要であり、全員に共通する基盤がどうしても必要なのです」と、多様な経歴を持つ職員たちに一貫した基準を与える必要性を説明する。

ここで見えてくるのは、善意や個人の勇気に頼る保護は機能しないという、ある種の教訓だ。マリアのように20年働いてきたベテランでさえ「何をしてよいのか分からない」と感じるのは、これまで明文化された手順がなかったことの裏返しでもある。研修や報告義務は、一見すると現場を萎縮させる規制に見えるかもしれない。しかし、通報を「思いとどまるよう促す」余地をなくすためには、まさにこうした手続きの明文化と、それを支える人員こそが必要になる。

日本では、組織内の通報が上下関係や評判への配慮によって機能しにくい場面があると指摘されることがある。フランスの事例が示すのは、通報の仕組みそのものを作るだけでは足りず、それを受け止める側——憲兵隊員であれ、市役所であれ、教会であれ——が実際にどう動くかまで検証されて初めて、沈黙は防げるということだ。米国では訴訟とコンプライアンスの圧力が制度化を後押ししてきたとされるが、制度があること自体が被害者支援の質を自動的に保証するわけではないという見方もある。欧州全体では、予防教育の広がりと同時に、通報を受け止めるための司法資源の不足が課題として意識されているという。

パリの2000万ユーロの研修も、リハナ事件の監察報告書も、ベタラムをめぐる司教協議会の書簡も、共通して示しているのは、制度は作られた瞬間に完成するのではなく、日々の運用の中で試され続けるものだということだ。組織の名誉を守るための沈黙ではなく、被害を早く安全に語れる制度を、私たちはどうやって日常の中に組み込んでいけるだろうか。

フランスメディアの関連記事