
11歳の少女の死が動かした69条の法案――暴力を「家族の秘密」から「国家の責任」に変えられるか
2026/9/8
フランスで11歳の少女リアナが性的暴行を受けて殺害された。加害者とされる人物は、すでに司法当局に容疑者として通報されていた人物だったという。つまり、システムはこの子どもを救えなかった。9月7日、パリのヴァンドーム広場――法務省の前――に、女性団体や子どもの保護団体が集まり、法案の採決まで抗議を続けると宣言した。彼女たちが求めているのは、慰霊や糾弾ではない。100ページを超える、69条からなる一本の法律だ。
この日、国民議会の特別委員会で審議入りしたのが、性差別・性的暴力に対する包括法案である。名前だけ聞くとありふれた法改正に見えるかもしれない。しかし中身を見ると、これは「事件が起きてから加害者を罰する」という従来の刑法の発想を超えて、暴力を発見し、被害者を支え、捜査を徹底し、裁判を専門化し、そのすべてに予算を恒常的につけるという、社会の側の仕組みそのものを作り替えようとする法案だとわかる。医療従事者や企業に暴力対応の研修を義務づけ、幼稚園児全員に年1回の個別面談を設けて虐待の兆候を早期に発見しようとする。被害届を出していなくても治療費を全額補償する専用センターを各県に置き、性的暴行の捜査では聴取や証拠保全など「最低限やるべきこと」を法律で定める。さらに性的暴力と家庭内暴力を専門に扱う裁判所を新設し、夫婦間の性的義務という規定を廃止し、近親相姦を独立した重罪として明文化する。
この「近親相姦を名指しする」という一点に、フランス社会が抱えてきた独特の空白が凝縮されている。近親相姦被害者支援団体「Face à l’inceste」の事務局長ミシェル・クレオフ氏は、フランスの法制度が「1791年以降、近親相姦を法的に名指ししてこなかった」と指摘する。つまり200年以上のあいだ、家庭内で起きるこの種の暴力は、強姦や性的暴行という一般的な犯罪類型の中に埋没させられ、独自の名前を与えられてこなかったということだ。名前がないということは、統計にも現れにくく、被害者は自分に起きたことを言葉にする術を持ちにくい。クレオフ氏が「タブーが取り除かれる」と表現するのは、法律用語の技術的な変更ではなく、社会が「これは存在する」と認めることそのものを指している。子どもの被害者が「極めて脆弱」なのは、加害者が本来自分を守るはずの親や近親者であるために、抵抗する力だけでなく、何が起きているかを理解する力そのものを奪われるからだ、と彼女は説明する。
ここで見過ごされがちなのは、法案の理念に反対する政治勢力がほとんどいないという事実だ。国民連合とUDR、そしてLFIを除く8会派、240人の議員が法案を支持している。対立は「暴力を許すか許さないか」ではなく、「それを実行するのに、いくら払うのか」という一点に集約されている。政府は30億ユーロの拠出を約束したが、LFIのガブリエル・カタラ議員は、その予算配分が法案の条文のどこにも明記されていないと批判する。専門捜査官の予算はどこにあるのか、被害者の医療支援を社会保障が全額負担する道筋はどこにあるのか――彼女の問いは単純だが、答えるのは簡単ではない。カタラ議員が懸念するのは、法案の「教育的な意義」だけが残り、「費用のかかる措置」が予算折衝の中で削られていくというシナリオだ。実際、秋には予算審議が控え、国会の会期は大統領選挙を理由に来年2月で終了する。女性財団の広報担当者が「採決までに残された時間は少ない」と語るのは、政治日程そのものが法案の敵になりうるという危機感の表れだろう。
児童弁護士のドミニク・アティアス氏の言葉は、この法案が単なる条文の集合ではないことを思い出させてくれる。「法律は、社会に示されるシグナルであり、方向性だ」と彼女は言う。法律が変わったからといって、暴力が翌日から消えるわけではない。しかし、何を犯罪と名付け、何を捜査すべき対象と定め、誰にその費用を負担させるかという選択は、社会が「これは家庭内の私的な出来事だ」と考えるか、「これは公共が引き受けるべき問題だ」と考えるかを、制度として固定してしまう。アティアス氏が「政権が交代しても安定性を確保するため」に4〜5年単位の予算の具体化を求めているのも、この理念を一度きりの政治的パフォーマンスで終わらせないためだ。彼女が最後に付け加えた「男性も必要です」という一言は、この問題を女性だけの闘いから、社会全体が引き受けるべき課題へと位置づけ直そうとする意志の表れとして読める。
こうしたフランスの動きを、日本の読者はどう受け止めるだろうか。日本では、被害を届け出ることへのためらいや、支援体制の地域差、学校・福祉・司法がうまく連携しきれないことが、一般に課題として指摘されることが多い。フランスの法案が挑んでいるのも、まさにこの「発見してから回復まで」の一連の流れを、どの専門職が担当し、誰が予算を出すのかという設計そのものだ。名前をつけ、担当者を決め、予算をつける――この地味な作業の積み重ねこそが、被害者の沈黙を破る条件になるという発想は、家庭内の問題を私的領域に留め置きがちな文化圏では、なかなか実感しにくいものかもしれない。一方、アメリカでは、州ごとに制度や量刑の運用が異なり、刑罰強化をめぐる立場の対立が対応を分断しやすいと一般に言われる。フランスが目指す「全国一律の包括法」というアプローチは、こうした分断とは異なる道を選んでいるとも言えるだろう。
法案は10月に本会議で審議される予定だ。そこで問われるのは、条文の細部だけではなく、フランス社会がミートゥー運動から10年を経て、不処罰の終結にどれだけの費用を払う覚悟があるかという、極めて具体的な問いである。予算がつかなければ、専門裁判所も、年1回の個別面談も、絵に描いた餅で終わる。逆に予算が固定されれば、政権が変わっても被害者支援の水準は守られる。
暴力を防ぎ、被害から回復するための費用を、社会はどこまで恒常的な公共支出として引き受けるべきなのだろうか。それは「誰かの家庭の不幸」を、私たち全員の税金と制度で支える覚悟があるか、という問いでもある。あなたなら、その費用をどこまで引き受けたいと思うだろうか。