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「野菜をもらいに来ました」――フランスがケアを“権利”として設計し直す理由
社会

「野菜をもらいに来ました」――フランスがケアを“権利”として設計し直す理由

2026/9/11

「大きく転落してしまいましたが、Secours populaireがあって本当に助かっています」。ニオールの支援団体を訪れた80代の女性は、そう静かに語ったという。ソーシャルワーカーに紹介されるまで、まさか自分がこの扉をくぐることになるとは思っていなかった。野菜をもらいに来て、節約を重ねながらも「誰にでも困難な時期は訪れるものです」と付け加えた彼女の言葉には、支援を受けることへの躊躇と、それでも尊厳を保とうとする意志の両方がにじんでいる。

この一場面は、いま複数の方向から報じられているフランスの「ケア」をめぐるニュース群の、いわば縮図だ。Secours populaireとIpsosの調査によれば、フランス人の26%が自身を困窮状態にあると答え、これは前年から6ポイントの上昇だという。エネルギー料金を家計の大きな負担と感じる人は79%にのぼり、必要不可欠な支出を諦めた人も4人に1人を超える。最低賃金水準の世帯では、健康的な食事を1日3食確保できないと答えた人が58%に達したという数字も出ている。同団体の担当者は、これを「コロナ禍後のインフレ、そしてエネルギーと燃料の危機がほとんど途切れることなく相次いだ結果」であり、「貧困が根付いている」と表現した。

この困窮の広がりと同じタイミングで、フランス政府は傷病休暇の管理を厳格化する2つの政令を公布しようとしている。医師を転々として休暇の証明を得る「医療機関渡り」には金銭的な制裁を科し、長期療養が必要な疾患に該当しない6か月超の傷病休暇については、手当の支給期間を3年から1年へと短縮するという内容だ。フランス疾病保険にとっての費用は30億ユーロを超えると見積もられており、政府は対象患者へのフォローアップ強化を約束してはいるが、制度変更そのものは患者の負担増に直結する。

なぜこの2つの動きが同時に起きているのか。ここで見過ごされがちなのは、両者が実は同じ問いに対する正反対の答えだ、という点だ。困窮が広がっているからこそ支援の裾野を広げようとする動きと、財政負担が膨らんでいるからこそ給付の対象を絞り込もうとする動きが、同じ国で同時進行している。フランスの社会保障が長らく掲げてきた「連帯」の理念――病気も貧困も老いも、本人の管理不足のせいにせず社会全体で支える、という考え方――は、いままさにその普遍性を維持できるかどうかの分岐点に立たされているように見える。

この緊張は、身体そのものをめぐる小さな出来事にも表れている。フランスの医薬品安全機関ANSMは、避妊薬デソゲストレルを服用する約160万人の女性に対し、髄膜腫のリスクがわずかに高まる可能性があるという通知を郵送すると発表した。リスクは他のプロゲスチン薬に比べて極めて低く、67,000人に1人程度と見積もられている。中止すべきかどうかは一律に決めず、医師との相談に委ねるという姿勢が貫かれている点は興味深い。患者団体France Assos Santéは、情報が本人に直接届く仕組みを評価しつつ、この通知の決定自体が2024年12月とされることには「遅きに失した」と苦言を呈した。ここにあるのは、リスクをどこまで個人の判断に委ね、どこまで国家が介入して知らせるべきか、という線引きの難しさだ。

早産児をめぐる研究もまた、ケアの継続性という同じテーマを別の角度から照らす。フランスでは出生の7%、年間およそ4万5,000人が早産で生まれるという。国立保健医療研究所(Inserm)と国立人口統計研究所(Ined)の調査では、10歳時点で早産児は概して健康で就学しているものの、学習支援を受ける割合は23%と、正期産児の12%を大きく上回った。注意力や行動面での困難を抱えるリスクも早産児で16%と、正期産児の12%より高い。早産児の親の団体アブラカダブラの会長は、「病院を退院した後に精神運動発達の療法や言語療法が必要になる可能性を知らない家族が多い」と指摘し、思春期後まで続く長期的な支援体制を求めている。退院した瞬間に医療の物語が終わるわけではない、という当たり前のことが、実際にはなかなか制度に反映されていない実情がここにある。

これらの出来事を並べてみると、フランスという国が「ケア」をどう捉えているかの輪郭が見えてくる。健康も、貧困も、老いも、本来は個人の落ち度ではなく、社会が引き受けるべき領域だという理念がある。だからこそ避妊薬のリスクは黙って処方を続けるのではなく郵送で本人に知らせ、早産児の困難は退院後も追跡されるべきだと研究者が声を上げ、困窮者への支援は慈善に委ねられながらも尊厳を損なわない仕組みが模索される。その一方で、傷病休暇の制度に見られるように、給付が際限なく広がることへの警戒も同時に強い。この二つの力のせめぎ合いこそが、フランスの社会保障を動かしているエンジンなのだろう、と筆者は見ている。

日本の読者にとって、この構図はどこか既視感があるのではないか。日本には皆保険制度と介護保険があり、制度としての土台は決して弱くない。ただ、家族が無償でケアを担うことへの依存が根強く残っているとも言われる。フランスのSecours populaireのように、困窮した人が「野菜をもらいに来る」場として機能する仕組みが、日本ではどこまで日常に組み込まれているだろうか。制度は存在していても、それを利用することへの心理的な壁が高いままだとしたら、それは制度の欠陥というより、支援を受けることをどう社会が意味づけているかという文化の問題なのかもしれない。

米国について今回のニュースから語れることは限られているが、一般に支援へのアクセスが雇用や保険と強く結びつきやすい社会だと言われることが多い。仕事を失えば医療へのアクセスも同時に失われかねない、という構造が指摘されることがある点は、フランスが目指す「権利としてのケア」という発想と対照的に映る。

この先、フランスの傷病休暇制度の見直しが実際にどれだけの人の生活に影響するのか、そして困窮率の上昇に対して支援団体の活動がどこまで持ちこたえられるのかは、来年以降の指標を見なければ分からない。ただ一つ言えるのは、病気も、貧困も、早産という偶然も、誰にでも起こりうるという前提に立つかどうかで、制度の設計は大きく変わるということだ。

ケアを受けることを例外的な救済ではなく権利にするには、誰がどの負担を引き受けるべきなのだろうか。ニオールで野菜をもらいに来た女性の言葉を思い出しながら、読者のみなさんにも考えてみてほしい。

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