
「あなたのためだから」の裏側で、誰が「分からない」と言えなくなっているのか
2026/9/14
胸に残った四つの黒い点。ナディア・マヒトゥクという40代の女性は、シャワーを浴びるたびにそれを見る。2022年末、がんの放射線治療を受けるために医師が描いた消えない目印だ。治療そのものを後悔してはいない。彼女が引っかかっているのは、治療計画が「必ず受ける段階」として最初から決まっていて、自分の意見が求められなかったこと、そしてこの印が一生消えない可能性を、事前に知らされなかったことだ。「知っていれば、残さない方法を選びたかった」と彼女は振り返る。
この一言に、今回並べる四つのニュースをつなぐ糸がある。がん治療、自治体警察、ゲームプラットフォーム、そして人工知能。分野はまったく違う。しかし共通しているのは、「専門知識を持つ側が、本人に代わって『安全』を判断する」という構造そのものだ。そしてその構造が、本人の「分からない」「知らなかった」「選びたかった」という声をどこまで拾えているか、という問いである。
フランス対がん連盟が行った調査は、この問いをかなり具体的な数字で突きつけている。放射線治療を受けた患者3,669人のうち、50.6%が治療方針について意見を求められず、28.5%は同意さえ求められなかったと答えた。女性は男性より一貫して数字が悪く、同意を求められなかった割合は女性37.3%に対し男性17.1%、意見を求められなかった割合は女性64%に対し男性33%だった。治療中に何らかの副作用を経験した患者は88%にのぼるが、副作用について事前説明を受けていなかった患者は27%、治療終了後の経過について情報を得られなかった患者は24.4%だった。
ここで見過ごされがちなのは、患者たちが治療の医学的な有効性を疑っているわけではない、という点だ。腫瘍専門医のシルヴィ・ネグリエが説明するように、放射線治療は「利益とリスクを比較すれば明らかに効果の側に傾く」治療であり、多くの場合、患者に残された唯一の現実的な選択肢でもある。だからこそ医療チームは、患者と同じくがんを根絶することを最優先にする。問題は治療そのものではなく、その決定に至る過程で、患者が「治療を受ける対象物」ではなく「治療の主体」として扱われたかどうかだ。乳がん患者のエレオノールは、自分の治療計画を「実際の同意のない指示の連続」だったと表現し、「医師には知識と権力があるので、質問することも反論することも難しい」と語る。専門知と権威が結びつくとき、対等な対話は自然には生まれない。これは医療現場に限った話ではないはずだ。
オード県カルカソンヌで9月、4人の自治体警察官が停職処分を受けた事件も、別の角度から同じ問題を照らしている。巡回中に人種差別的、LGBT嫌悪的な発言を繰り返す様子が撮影されていたというこの事件は、フランスの自治体警察という制度そのものの脆弱さを浮かび上がらせた。自治体警察官になるには採用試験、120日間の研修、県知事と検察官による承認、そして宣誓が必要とされる。研究者セバスチャン・ロシェはこの承認・宣誓の仕組みを、県知事と検察官に「採用を監視する権利」を与えるものだと説明する一方で、「この安全網は常に機能するわけではない」と指摘する。なぜなら、国家警察や国家憲兵隊には存在する独立した監督機関が、自治体警察には存在しないからだ。「自治体警察の倫理について考える内部機関がなければ、住民との関係をどう考えているのかといった問題が、採用時に必ずしも問われない」とロシェは述べる。ここで守られるべきなのは住民の安全であるはずなのに、その「守る側」を誰がどう点検するのかという仕組みが、制度の隙間に落ちている。
Robloxをめぐる動きは、この構造をさらに複雑にする。利用者の3分の1が13歳未満とされるこのプラットフォームは、性的犯罪者から子どもを守る対策の不備を批判され続けてきた。今年に入ってメッセージ機能への年齢確認や16歳未満向けの制限アカウントを導入したが、CEOのデビッド・バズッキ自身が「短期的には摩擦を生んだ」と認めるほど、登録の伸びは鈍化した。米国では上院議員が調査を始め、約10州が提訴か和解に踏み切り、欧州委員会はRobloxをEUの最も厳格なデジタルサービス規制の対象にすると表明した。子どもを保護するための規制強化と、成人プレーヤーやクリエーターを取り込みたい企業の収益戦略が、同じ発表の中に同居している。誰のための「保護」なのか、その線引きは企業自身にもまだ揺れているように見える。
そしてAIだ。Anthropic のCEOダリオ・アモデイは9月、AIの開発速度を落とすか、一時的に停止できる仕組みが必要だと呼びかけた。彼が懸念するのは、人間の介入なしにAIが自らを改良していく「自律的な再帰的改良」が、人間の理解や制御を超えてしまう可能性だ。「6〜12か月以内に、あるグループのエージェントがインターネット全体を掌握できるようになるのではないか」という言葉は、専門家自身が自分たちの生み出した力を制御しきれないかもしれないと認めた点で異例だった。彼は独立した監視担当者の導入や、企業間の共通安全基準、主要国間の政治的調整を提案し、ライバルであるOpenAIのサム・アルトマンやイーロン・マスクまでもがこれに同意を示した。ここでの「本人」は個々の患者や住民ではなく、この技術の影響を受けるすべての人類だと言えるかもしれないが、構造は同じだ。判断を下す力を持つ側が、その力の及ぶ範囲や検証方法を、当事者に開かれた形で説明できているか、という問いである。
この四つの事例を並べてみると、専門知そのものが悪いわけではないことが分かる。放射線治療は効果があるし、自治体警察は必要とされているし、AIの開発を止めることが最善とも限らない。問題なのは、専門知が「代わりに決める」ことと「一緒に決める」ことの境界を曖昧にしたまま、説明や異議申し立ての手続きを省略してしまうことだ。日本でもインフォームド・コンセントという言葉は定着したとされるが、医療者への遠慮や家族を介した意思決定の慣習が、本人が直接「分からない」と言いにくい空気を残している場合があると言われることがある。フランスの調査結果は、制度としての同意手続きが整っていても、実際の対話の質までは保証されないことを示しているように見える。
これから先を考えるなら、鍵になるのは同意書に署名させることそのものではなく、後から「分からなかった」「知らなかった」と言える回路が制度の中に組み込まれているかどうかだろう。フランス対がん連盟が求めているのも、患者を治療の「主体」として扱う実質的な対話であり、Anthropicが提案しているのも、外部から検証可能な独立監視の仕組みだ。自治体警察に欠けているとロシェが指摘するのも、まさにその内部での点検機能である。
あなたが最後に「専門家に任せて安心した」と感じた場面を思い出してほしい。そのとき、もし「よく分からない」と言い出していたら、その場はどう変わっただろうか。安全を差し出す代わりに、自分の選択を差し出していなかっただろうか。